移動手段の革命は人類に何をもたらしたか? 『馬・車輪・言語(下)』より
記事:筑摩書房
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輸送技術の進歩は、人間の社会・政治生活における変化の原因としてきわめて大きな影響力をもつ。自家用車の導入は、郊外の住宅地、ショッピングモール、高速道路を生みだし、重工業を変貌させ、石油の莫大な市場を誕生させ、大気を汚染し、家族を各地に四散させ、若者には逃げだして性交渉するための熱を帯びた動く空間を提供し、個人の地位やアイデンティティを力強く表明する新たな方法をこしらえた。
人が馬に乗り始め、重い四輪荷車(ワゴン)や二輪荷車(カート)が発明され、スポーク型車輪の二輪戦車(チャリオット)が開発された歴史には累積的効果があり、展開の速度はゆっくりではあったものの、最終的には自動車と同じくらい根底から影響をおよぼすものとなった。そうした影響の一つは、ユーラシアを孤立した文化が点在した状態から、一つの相互に関連したシステムへと変容させたことだった。それがどう生じたのかが本書の主眼だ。
大半の歴史家は、騎馬と初期の車輪付き乗り物によって生じた変化をリスト化し始めると、まずは戦争のことを思い浮かべる。しかし、馬を最初に家畜化した人びとは、馬を食糧として考えていたのだ。馬は冬季に肉を手軽に手に入れられる供給源だったのだ。馬はステップで冬中ずっと自分で餌を探せるが、牛と羊は水と飼い葉を与えてやる必要があった。人びとが家畜として馬に親しみ、おそらく比較的おとなしいオスの血統が確立されたのちに、誰かがとりわけ従順な馬を見つけてその背に、冗談半分で乗ったのだろう。
しかし、乗馬の本格的な用途はすぐさま、家畜化した牛、羊、馬の群れの管理にまず見いだされた。乗馬は、少ない人数でより大きな群れを管理できるうえに、群れを効率よく移動できるようになった重要な進歩であり、家畜が食糧と衣料の主要な供給源であった世界では、この可能性だけでもじつに意味のあることだった。前4800―4600年にはヴォルガ川中流のフヴァリンスクで、馬は人間の葬送儀礼で明らかに家畜化された動物とともに供儀に付されるようになった。
前4200―4000年には、ポントス・カスピ海ステップに暮らす人びとはおそらく襲撃と退却の際に馬に乗り始めていただろう。いったん馬に乗りだすと、騎馬による部族間抗争を防ぐものは何もなかった。有機物でつくられたハミでもなんら問題なく機能したし、金石併用時代のステップの馬は人が乗れるだけの体高(13―14ハンド〔133―137センチ〕)があった。ステップの部族の指導者は、前5200―4800年ごろに牛と羊を飼い始めるとすぐに、石製の槌矛(メイス)をもち歩き始めた。前4200年には、人びとは移動力を増した。単独葬の墓は、それまでの合葬制とは異なり、個人の地位と栄誉を重視するものだった。高位の人物の墓からは、副葬品として馬頭形の石製槌頭のあるメイスなどの武器が見つかった。襲撃隊は数百キロの距離を移動して、バルカン半島の銅で一財産をつくり、それを交易に使用したほか、故郷のドニエプル川=アゾフ海のステップに暮らす親族への土産にもした。前4200―4000年ごろの古ヨーロッパの崩壊は、少なくとも一部は彼らの仕業だろう。
ステップの騎馬の牧畜民と定住型の農耕社会のあいだの関係を、歴史家は通常、スヴォロヴォ文化の人びとが古ヨーロッパの民と対立したように、暴力的なものであるか、寄生的なものか、またはその双方であったと見なしてきた。「未開の」牧畜社会は、穀物、金属、富に飢えていて、彼らはそのいずれも自分たちでは生産できず、「文明化した」近隣の民を食い物にしていたのであり、文明の民がいなければ生き残れなかったという見解だ。しかし、こうした考え方は歴史時代で考えても、ソ連の民族誌学者のセルゲイ・ヴァインシュテインや、欧米の歴史学者のニコラ・ディコスモや、私たち自身の植生研究が示したように、不正確であり不完全であった。牧畜は充分な量の食糧を生産していた。中世の中国でもヨーロッパでも、平均的な遊牧民は、平均的な小作農よりよい暮らしを送っていただろう。ステップの鉱夫と金属細工師は、自分たちで豊富な鉱石を採掘して、自分たち用の金属器や武器を製造していた。それどころか、ロシアとカザフスタンの巨大な銅鉱山とザラフシャン川の錫の採掘場は、近東の青銅器時代の文明がむしろ彼らに依存していたことを示しているのだ。
先史時代は、ステップの軍隊化した遊牧民と中世の中国やペルシャの文明との関係をもとにどんなモデルを考えても時代錯誤となる。スヴォロヴォ=ノヴォダニロフカ時代のステップ社会は、確かにドナウ川下流の近隣の民を餌食にしたようではあるが、彼らは同時にククテニ=トリポリエの隣人とは明らかにより融合していたし、見たところ平和な関係を築いていた。マイコープの交易者は、ドン川下流のステップの集落を訪れていたようだし、この地に織機をもち込んだ可能性すらある。友好的な物々交換と異文化間の関係を調整した制度は、襲撃の制度と同じくらい重要なものだった。
再構築された印欧祖語の語彙と印欧の比較神話学から、統合を推進した重要なシステムには以下の二つが含まれることがわかった。保護者(パトロン)と被護者(クライアント)のあいだの誓約で結ばれた関係で、これが強者と弱者のあいだの、神々と人間のあいだの相互の義務を定めていた。もう一つは客人(ゲスト)と主人(ホスト)の関係で、これは通常の社会集団外にいる人びとにまで、こうした諸々の保護を拡大したものだった。不平等な立場を認めた最初の制度はおそらく非常に古く、前5200―5000年ごろに牧畜経済を最初に受け入れ、顕著な貧富の格差が最初に出現した時代まで遡るだろう。二つ目の制度は、ヤムナヤ・ホライズンの初めに、無秩序な地理的、社会的空間への移住を規制するために発達したのかもしれない。
車輪付きの乗り物は、おそらく前3300年ごろにステップに導入されたが、最初はやはり牧畜経済にその用途が見いだされた。初期のワゴンとカートは、円盤状車輪の付いた速度の遅い乗り物で、牽引動物は牛だったと思われる。ワゴンは葦を撚り合せてつくった筵のアーチ型屋根で覆われており、裏側にはもともとフェルトが括りつけられていたようだ。ヤムナヤ時代の墓には、ほかの腐った有機物とともに葦の筵の残骸があった。ときには筵に赤、黒、白の縞と曲線の模様が描かれており、葬儀では間違いなく彩色されていた。
ワゴンのおかげで牧畜民は川沿いを離れて、川と川のあいだのステップの奥地まで、ワゴンに積んだテント、食糧、水に頼りながら、一度に何週間も、何カ月も群れを移動させられるようになった。ヤムナヤの牧畜民の場合、通常の年間の移動範囲は50キロ未満であった可能性が高いが、たとえそうだとしても、ワゴンによる大量輸送と、馬に乗っての高速の移動はステップの経済に革命をもたらし、ユーラシアのステップ地帯の大半を開放した。それまではおおむね自然のまま利用されていなかったステップが、人間に都合よく改変されたのだ。ヤムナヤ・ホライズンは前3300年ごろ、ポントス・カスピ海ステップ一帯を一気に塗り替えた。それとともにおそらく印欧祖語も広まり、その話し手が拡散するにつれてさまざまな方言も四散し、彼らが移住することでゲルマン、バルト、スラヴ、イタリック、ケルト、アルメニアとフリュギアの各語派の種がまかれた。(東郷えりか訳)