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ニケシュ・シュクラ編『よい移民』 今必要とされる「ふつう」の物語

記事:創元社

『よい移民 現代イギリスを生きる21人の物語』(創元社)
『よい移民 現代イギリスを生きる21人の物語』(創元社)

多様性とはふつうのもの

 2011年の国勢調査の結果によれば、イングランドとウェールズの全人口のうち、黒人、アジア系、エスニック・マイノリティ(Black, Asian, Minority Ethnicの頭文字をとってBAMEと呼ばれる)と自己規定した人びとは20%近くに及んだ。ロンドンだけで見れば、その数は40%に達している。世界中、とりわけかつてイギリスが植民地として支配した地域出身の「移民」とその子孫たちの存在を抜きに、現代のイギリスを考えることはできない。多人種、多宗教、多言語……と、いくつもの「多」を連ねても表現しきれぬほど複雑な社会状況、それが現代イギリスにおけるいたって「ふつう」の現実である。

 しかしながら、日常生活で目にするポピュラー文化には、このような「ふつう」のものとしての多様な現実が全く反映されていない。これが『よい移民』に収録されたエッセイの多くに通底する不満であり憤懣である。

 メディアの世界、とくに出版業界には、依然として白人中心主義がのさばり、白人のオーディエンスを想定したコンテンツ制作が自明のものとされている。黒人やアジア系に登場の機会が与えられることがないわけではない。しかしそこでは往々にして、既存の人種的ステレオタイプを追認するような演技が求められたり、何らかの「社会問題」の当事者として発言する役回りが期待されたりする。あるいは、さまざまな属性の登場人物をバランスよく登場させているという体裁を整えるための要員としてのみ席を与えられる。

 黒人やアジア系の起用には、何か特別な理由や役割が必要であるかのように考えられているのだ。別途説明が求められるということは、かれらの存在が「ふつう」だと見なされていないということである。多彩な容貌の人びとが街を行き交い、隣り合って暮らしている、それが今日のイギリスの「ふつう」の風景だというのに。

そこに自分たちの姿を見出せるような物語

 本書執筆者のひとりで俳優のリズ・アーメッドは、イギリス映画界ではパキスタン系の背景を持つ自分が「ただの男」を演じる機会を得ることは非常に難しいと語る(本書219頁)。ナイジェリア系移民3世でジャーナリストとして活躍するビム・アドワンミは、視聴者や読者としての立場から次のように述べる。

 私は周囲の文化に自分自身を見出したいと思う。私はナチュラル・ヘアーの女子や、ウィーブをつけている女子、縮毛矯正をしている女子を見たいし、あらゆることをしている彼女を見たい。彼女が映画に行くのを見たいし、彼女が珍しい病気の治療法を発見するのを見たいし、ショップ店員として働く彼女を見たいし、大惨事が訪れた際に彼女が世界を救うのを見たいし、彼女が恋に落ちるのを見たいし、彼女が宇宙人と戦うのを見たいし、彼女がたくさん笑うのを見たい。(本書281頁)

 過大な要求ではないだろう。映画やテレビ、本のなかで白人のキャラクターが「ふつう」にしていることを、自分たちと同じような見た目の(あるいは、同じような響きの名前を持っていたり、同じ宗教や伝統を重んじていたりする)キャラクターがしているのを見たい、それだけのことである。しかしながら現状では、BAMEの人びと、とりわけ子どもたちが、自分たちを投影できたり、イギリス社会の十全な構成員として承認されているという感覚が得られたり、将来のロールモデルを発見できたりする物語が圧倒的に足りていない。

 このことがもたらす弊害として、ダレン・チェティが語っている逸話には身震いを禁じ得ない。長年小学校の教員として働いた経験を持つ彼によれば、作文の授業で「お話」を創作するという課題を与えられたとき、エスニック・マイノリティの子どもたちは無意識のうちに「イングランド風の名前を持ち、英語を第一言語として話す」白人のキャラクターを主人公にしてしまうというのである(本書138頁)。子どもたちは自分の身体的・文化的特徴を肯定的に描写するという着想や、自分たちのような存在が社会のなかで中心的な役割を担うというヴィジョンを持てていない。そういう物語に接したことがないからである。

個々人のなかの多様性にこそ配慮を

 「移民」の存在感は日増しに高まり、「移民」が登場する物語も次第に増えてきているかもしれない。だが、そこでの「移民」の役回りが主流社会から歓迎されるものに、数の上では減少傾向にあるにもかかわらず「マジョリティ」を僭称する者たちにとって都合のよいものに、すなわち「よい移民」としての役回りにとどまるものであったならば、「本当の平等に、いや受け入れにすらつながりはしない」とウェイ・ミン・カムは語っている(本書136頁)。

 イギリスにおいても、そして日本においても、今必要なのはもっと「ふつう」の物語ではないだろうか。「マイノリティ」と名指される個々人の経験は、肌の色や宗教、言語、ジェンダー、セクシャリティなどといった社会的属性に還元されるものではない。かれらはいわれなき差別の犠牲者としてのみ声を発するわけではない。清廉潔白な聖人でもなければ、勇猛果敢な英雄でもない。それぞれが多様性と多面性を内に抱え、複雑で陰影に満ちた人生を歩む人間なのだ。

 個々別々の経験を糧に、普遍的な物語を紡いでいく語り手でもある。そして、それぞれの葛藤から、痛みから、歓喜から、悲嘆から、記憶から、希望から生まれる物語は、また別の語り手をきっと触発する。本書の「訳者あとがき」でも引用したニケシュ・シュクラの言葉をふたたび引用して、この小文を終えたい。それが誰かの物語の始まりになることを祈りつつ。

 物語は一つではない。あなたの物語がある。そして私のものが。私のものをあなたに話したら、今度はあなたの物語が聞きたい。(本書321頁)

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