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震災を『物語る』──柳田國男が伝えたかったこと 『続・中学生からの大学講義2 歴史の読み方』より

記事:筑摩書房

original image: DONDON2018 / stock.adobe.com
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 震災や津波を忘れてはならない歴史として継承していくことは、簡単なことではありません。東北地方はこれまで何度も津波に襲われていますが、その記憶をいかに継承したかについては、地域によって温度差がありました。それが今回の被害の大きさにつながったという側面もあります。柳田國男という民俗学者が残した文章をもとに、津波をめぐる記憶の継承について振り返りましょう。

 柳田は明治時代初期に生まれ昭和時代半ば、87歳で亡くなるまで活躍した民俗学者です。東日本大震災では岩手県遠野市が緊急支援活動の拠点になりましたが、彼の著作ではその遠野の民話を集めた『遠野物語』が有名です。その中には津波で奥さんをさらわれた男の人のもとに、幽霊となって奥さんが現れる話が収められています。

 柳田には東北地方の三陸沿岸を歩いてまとめた『雪国の春』という旅行記があります。宮城県気仙沼市の唐桑半島は岩手県陸前高田市と接している半島で、東日本大震災では大きな被害を受けました。柳田は貴族院書記官長を辞任し、1920(大正9)年、46歳のときに東京朝日新聞社客員となりました。その手はじめに東北の東海岸を2カ月ほどわらじ履きでずっと歩いたのです。『雪国の春』には東京朝日新聞に連載した「豆手帳から」という随筆が収められていますが、その中に「二十五箇年後」というタイトルのエッセイがあります。

 二十五箇年後とは、1896(明治29)年6月15日に発生し大きな津波被害をもたらした明治三陸地震から25年後という意味です。柳田が25年前に起きた明治三陸地震による大津波のことを調べて書き留めたものが「二十五箇年後」というエッセイです。ちょっと読んでみます。

「唐桑浜の宿という部落では、家の数が四十戸足らずのうち、ただの一戸だけ残って他はことごとくあの海嘯(津波=著者注)で潰れた。(中略)その晩はそれから家の薪を三百束ほども焚いたという。海上からこの火の光を見かけて、泳いで帰った者もだいぶあった。(中略)母はいかなる事があってもこの子を放すまいと思って、左の手でせいいっぱいに抱えていた。乳房を含ませていたために、潮水は少しも飲まなかったが山に上がって夜通し焚火の傍にじっとしていたので、翌朝見ると赤子の顔から頭へかけて、煤の埃でゴマあえのようになっていたそうである。」(柳田國男『雪国の春』角川ソフィア文庫、2011年)

 これは大津波の記録を柳田が土地の人から聞き取った内容です。このようなことは先の大津波でも無数にあったと思います。ところが25年後になると、生々しい記憶は失なわれ、次第に風化していく様子が描かれています。

「話になるような話だけが、繰り返されて濃厚に語り伝えられ、不立文字(文字にならない=著者注)の記録は年々にその冊数を減じつつあるかと思われる。(中略)明治二九年の記念塔はこれに反して村ごとにあるが、恨み綿々などと書いた碑文も漢語で、もはやその前に立つ人もない。」(同前)

 柳田が言っているのは、時間が経つと大津波の記憶も薄れ、目立った話だけが語り継がれるようになり、ほかの記録は段々と失われていく。碑文も石碑もつくられたが、漢語で書かれているので読める人もいなくなったということです。

 震災の記憶、歴史が次第に失われていく様を率直に記録して、これから起きるであろう津波に対する備えを忘れてはいけない、柳田はそのことを示唆しているのです。人々が津波の記憶を忘れて、次第に海岸沿いに家を建てはじめていましたので、彼はそういった忘却が次の災害につながる危険があることを指摘しています。

 柳田が民俗学という学問を始めたのは、文字にならない記録、たとえば私たちの生活のしかたやライフスタイルを記録に留めようとしたからです。歴史学は文献に基づいて書かれるものが多いのですが、習俗や行事など文献に残らないものを収集しようとしたのが柳田独自の民俗学です。柳田は『青年と学問』という本の中で、歴史の重要性について次のように述べています。

「我々がどうしても知らなければならぬ人間の生活、それを本当に理解して行く手段として、人が通ってきた途を元へ元へと辿って尋ねるために、この学問(歴史=著者注)は我々に入用なのである。苦いにせよ甘いにせよ、こんな生活になってきたわけが何かあるはずだ。それを知る手段は歴史よりほかにない。つまり現在の日本の社会が、すべて歴史の産物であるゆえに、歴史は我々にとって学ばねばならぬ学科である。」(柳田國男『青年と学問』岩波文庫、1978年)

 皆さんは日本史や世界史を中学校や高校で学んでいるはずですが、柳田のいう歴史とは、もう少し私たちの生活に密着したものです。今、みなさんは洋服を着ていますが、明治時代には洋服は珍しくて多くは和服を着ていました。現在は椅子に座る生活がふつうですが、私の子ども時代にはまだ畳の部屋にちゃぶ台が置いてあって、そこでご飯を食べる生活でした。

 そうした生活の移り変わりを知ることによって、私たちの現在のライフスタイルや生活の根っこがどこにあるかを見つめること、それが柳田の言う「歴史」にほかなりません。哲学では「アイデンティティ(自己同一性)」と言いますが、自分が何者であるかを理解するためには生活のルーツを知らなくてはならないのです。柳田はそれを『青年と学問』で言いたかったわけです。

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