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ある男の幻想が招いた東アジア秩序の崩壊 『世界史のなかの戦国日本』より

記事:筑摩書房

original image: collins707 / stock.adobe.com
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 日本列島を長期にわたってまきこんだ戦国動乱のなかで、戦国大名は、高度に組織化された軍事力を獲得していった。かれらは武力を唯一の頼みとする一種の自信を抱くようになり、それが国際社会における日本の自己意識にもはねかえっていく。

 1544年、対馬島主の船が朝鮮に来て駿馬を求めた。これは先例にない不遜な行為で、なにか異心があるのではと疑われた。そのさい朝鮮のある法曹官僚はこう述べている。

 聞くところでは、倭人が中国へ行って、「日本は朝鮮を服従させているから、席次は朝鮮の上にしてほしい」といったそうです。これは倭人を厚遇してきた朝鮮の恩に思いを致さず、かえって驕りの心を生じ、中国における席次を争うものです。こうした言動は、朝鮮にとってこのうえない恥辱であります。倭国との交隣には節度が必要で、交わりを絶つことはできないとは申しましても、ことここにおよんでは、制限を加えるのもやむをえないでしょう。

 北京で問題発言をした「倭人」とは、1539年に入明した第十八次の遣明使湖心碩鼎(こしんせきてい)の一行と思われる。副使策彦周良は、寧波に入港して、通事周文衡に筆談で「吾が国は高く朝鮮・琉球の上に出づ、是れ曩昔(のうせき)以来の規なり」と語った(『初渡集』天文8年5月21日条)。

 この遣明使は事実上大内義隆の送ったものだ。義隆は、領国内に確保した石見銀山のシルバー・ラッシュを背景に、朝鮮に対して強気に出た、と解してはうがちすぎだろうか。

 1542年に種子島に伝えられた鉄砲は、堺の商人らによって畿内にもたらされ、戦術に大きな変化をもたらした。1575年、織田信長が鉄砲隊を組織的に駆使して、精強で聞こえた武田軍を打ち破った長篠(ながしの)の戦いは、戦国の群雄割拠が統一権力の生成へと方向を転じる画期となった。

 動乱の最後の勝者となって天下を掌握した豊臣秀吉が、より大きな自信と自尊意識をもって国際社会に臨んだのは、当然のなりゆきだった。秀吉が対外経略のもくろみを公言した最初は、関白になった直後の1585年9月だが、「唐国まで仰せ付けられ候」ということばどおり、最初から目標は明にすえられていた。

 同時に朝鮮の服属も、かれの構想にとって不可欠のステップだった。1587年5月、島津征伐の陣中から妻にあてた手紙に、「高麗の王に早船で「日本の内裏へ出仕せよ、さもなくば来年成敗するぞ」と申し遣わした。私の命あるうちに、唐国まで手に入れる所存だ」とある。

 1592年4月、日本軍は釜山に上陸し、わずか20日ほどでソウルを占領した。肥前名護屋で勝報に接した秀吉は、5月18日、征明成就後のマスタープランを明らかにした。

 ①後陽成天皇を北京に移し都廻りの10カ国を料所とする。姉の子で養子の秀次を大唐関白として都廻り100カ国をわたす。②日本帝位は良仁親王・智仁親王のいずれでもよい。日本関白は羽柴秀保・宇喜多秀家のいずれかとする。③高麗は羽柴秀勝か宇喜多秀家に支配させる。そして④秀吉自身は「日本の船付き寧波(ニンポウ)府」に居所を定める。……

 中国を中心とする世界システムをまるごと吞みこんでしまおう、できれば天竺まで切り取ろう、という壮大な構想(幻想?)である。東アジアに伝統的な「中華」への尊崇、慕夏(ぼか)思想は、弊履(へいり)のごとく捨てさられている。その背景には、「日本弓箭きびしき国」が「大明の長袖(ちょうしゅう)国」ずれに負けるはずがない、という軍事力に寄せる絶大な信頼があった。

 さらに注目すべきは、大唐・日本・高麗・天竺のすべてを総覧すべき秀吉自身の居所が、寧波に予定されていたことだ。これはシナ海交易の掌握こそが、帝国支配のかなめと考えられていたことを意味する。この意味で秀吉は、かの倭寇王王直の血をひく〈倭寇的勢力〉の統轄者だ。その出発点は、かれが1588年の「海賊停止令」によって、シナ海域に〈海の平和〉の守護者として臨んだときに求められよう。

 こうして始まった戦争は、緒戦の快進撃もつかのま、朝鮮人民の抵抗と明軍の参戦によって泥沼化し、朝鮮半島に無残な荒廃を残して、1598年、秀吉の死去にともなう日本軍の撤退によって終了した。この失敗は豊臣政権の命とりとなり、わずか2年後には関ケ原で西軍が大敗する。

 しかし勝利した明側にとっても、戦争による人的・経済的損失は大きく、中華への反逆がこんなにも公然と試みられたことへの衝撃とあいまって、明の国運は大きく傾いた。

 1609年、ヌルハチは明の支配領域との境界に女真文字の石碑を建てようとしたが、その文案中に「なんじは中国、われは外国、両家は一家」という不遜な表現があった。ついに1616年、ヌルハチは後金(ごきん)という国号と天命(てんめい)という年号をたて、明からの自立を宣言した。境界を越えてくる明人を捕殺し、1618年には「七大恨(しちだいこん)」を唱えて明に宣戦を布告した。この文書には、中華に対して臆するところがまったくなく、逆に天命われにありという確信にみちている。

 このころの後金は、明とくらべ数のうえではとるにたりない勢力にすぎなかった。兵力が約五万、配下の人口が数十万といえば、明ではせいぜい府ひとつ程度でしかない。しかしながら、軍事行動を前提に編成された規律ある社会組織をもつことによる自信と自尊意識は、秀吉と共通するものがある。

 1619年にサルフ山で大勝利をおさめた後金は、1627年と1636年には朝鮮半島に侵入し、対日戦争後の復興をはかっていた朝鮮に大きな打撃を与えた。1644年、明は李自成の反乱によって内側から崩壊し、すぐに清(1636年に後金から改号)軍が李自成を北京から追いはらって、漁父の利をおさめた。

 こうして中華の崩壊は現実のものとなった。秀吉の蒔いた種を清が刈り取ったといえるかもしれない。華と夷がところを替えたこの事件(華夷変態)は、中国や周辺地域の人々に対して、根本から世界観の見なおしをせまるできごとだった。

 清自身は、みずからを中華の主として認知させるために、国家の制度をととのえ、文化を奨励し、康熙(こうき)・雍正(ようせい)・乾隆(けんりゅう)の盛期を現出した。しかし朝鮮や日本は明の回復を願い、清を容易に中華と認めようとはしなかった。明回復の不可能をさとったとき、朝鮮や日本にこそ華は生きのびている、という文化的自尊意識が出てくる。

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