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絶望から立ち上がるための読書会 ミシェル・クオ『パトリックと本を読む』

記事:白水社

author photo Ⓒ 工藤ジャスミン桃子(Jasmine Cowen)
author photo Ⓒ 工藤ジャスミン桃子(Jasmine Cowen)

 パトリックは本の表紙を指でなぞった。
 「ナルニアって」と彼は言った。「ほんとにある場所?」
 「ああ」私は驚いて声を上げた。「あるといいんだけど」
 残念ながらナルニアは実在しないという意味で私は首を振った。
 「でも先生」パトリックは気になるらしく、あくまでも言い張った。両眉が山型になっていた。「ここにほら、地図がある」
 パトリックは慣れた手つきで背に折り目をつけて本を開いた。そして私の目の前にナルニア国の地図を差し出した。手描きの線で国境を引いた地図だ。「で、これがコンパス」パトリックは隅っこに描かれた星形のコンパスを指差した。地図を一生懸命に見たことがはっきりとわかった。
 「作者がこの地図も描いたんだと思うわ」
 パトリックは落胆したというより、まごついた顔になった。「じゃあ、作者が全部これをつくったってこと?」と頭の中で考えていることを口に出した。答えは求めていないようだった。が、やがてその顔が明るくなった。「たぶんナルニアはこの人の生まれた国に似てるのかも──どこの国の人って言いましたっけ?」
 「イギリス」
 「そう、イギリス。たぶんナルニアはそこみたいなのかも」
 「その可能性はあるわ」と私。「半人半獣はいないと思うけどね」
 その言葉にパトリックがくすりと笑った。
 「先生」何かに気をとられているパトリックが、あごに手を当てていた。「ある男にこんなこと言われたんだ。何かひとつのことをしたために、その後の人生ががらりと変わってしまうこともあるって。となりの房に入ってるやつなんだけど。そいつにそのセリフを、おれんちの真ん前で言われたことがあったんだ」
 パトリックは、その男と監房も自宅もたまたますぐそばだということに驚き、男の言葉が予言ででもあるかのようにとらえていた。
 「ある一日が自分の残りの人生を変えると思ってるの?」
 「もうそうなってる」

『パトリックと本を読む──絶望から立ち上がるための読書会』(白水社)目次より
『パトリックと本を読む──絶望から立ち上がるための読書会』(白水社)目次より

 「どう?」ようやく私は口を開いた。パトリックの邪魔をしそうで、ためらっていたのだ。
 「すごく面白い」
 私はパトリックにただ本を読ませる時間を設けるようになっていた。「黙読のようね」と、かつての読書を思い出してくれることを願いながら。パトリックが読んでいるあいだ私は宿題を直したが、たいてい私のほうが先に終わった。
 「いまどこを読んでる?」
 「石舞台が割れる場面」
 「そこが好きなの?」
 「うん、エドマンドとピーターが一緒に戦ってるシーン。最初はふたりで魔女と戦うんだけど、エドマンドのおかげでもちこたえるよね」
 「その本のどういうところが好き?」
 「エドマンドがいい」ためらうことなくパトリックは答えた。「すごく頭がいいんだ。まだ子どもなのに。魔女に石にされそうになったとき、魔女の杖をたたき落とすことを思いついた。ほかのみんながそんなことを思いつかずに戦っているときに。エドマンドは最初、魔女の側についてたのに」
 「なぜ魔女の側についたと思う?」
 「魔女にだまされたんだよ。ひとりぼっちだからついて行ったんだ。それと、あの〈ターキッシュ・デライト〉ってお菓子をもらったから。王にもなりたかったから。きょうだいに冷たくされて腹立てて、みんなの言うことをきこうとしなかった」

『パトリックと本を読む──絶望から立ち上がるための読書会』の原書
『パトリックと本を読む──絶望から立ち上がるための読書会』の原書

 「彼はどんなふうに変わったと思う?」
 「エドマンドは」と言いかけて、思いをぴたりと言い表す言葉はないかとパトリックは懸命に考えた。「それまでよりもずっと強く、賢くなった」
 パトリックが物語を読み終えるとき私は目の前にいた。小指で言葉をなぞりながら最後の段落にたどりつくのを目の端から見ていた。最後まできたとき、パトリックは不審そうにページをめくった。空白しかなかった。そこでこんどは裏表紙をひっくり返した。本にだまされているのではないか、本に終わりなどないのにと思っているようなしぐさだった。それから、前のほうへとページを繰り、もう一度読みたい章を探した。しばらくのあいだ、パトリックは読みつづけた。
 そのあと、私はのぼり坂のような線をノートに描く。「物語はこんなつくりになっています」と言う。「盛り上がっていく場面はどこでしょう?」と問う。
 それに対してパトリックは、「エドマンドがきょうだいとビーバー夫妻を捨て、裏切って魔女の側につくところ」と書いた。
 「てっぺんにあたるのはどこでしょう?」
 「エドマンドが許され、剣を与えられるところ」がパトリックの書いた答えだった。

『パトリックと本を読む──絶望から立ち上がるための読書会』(白水社)P.56-57より
『パトリックと本を読む──絶望から立ち上がるための読書会』(白水社)P.56-57より

 逃げ場になればとファンタジーを選んだつもりが、パトリックにしてみればナルニアはリアルな世界だった。パトリックにとってこの物語の何がファンタジーだったかといえば、エドマンドが変われたことだったのだ。

【「第6章 ライオンと魔女と衣装だんす」より】

ランダムハウスの書籍紹介動画(英語) 右下の歯車アイコンをクリックすると字幕翻訳できます。

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著者のTEDでの講演(英語) 右下の歯車アイコンをクリックすると字幕翻訳できます。

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