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吉本隆明さんの考える、流行がどのように決まるのか

記事:晶文社

『吉本隆明全集 22巻』(晶文社)
『吉本隆明全集 22巻』(晶文社)

その社会の最大公約数を体現しているのがファッション・モデル

 「東京国際コレクション・85」で、コム・デ・ギャルソンの川久保玲が見せたファッション・ショーは、内心でおもわず唸るほどの感銘だった。ただその驚きはもしかすると初歩的なもので、評価の軸としては邪道かもしれない。ちょっぴりそんな危惧はある。が、どうしてもそのことはあるのだとおもえた。

 わたしが感銘をうけたのは、単調なリズム音を背景に、淡々と舞台を一巡しては、袖の方にひっこんでゆき、また別の衣装を着こんで舞台に出てくるかとおもうと、また袖へひっこんでゆく、そんな白人のモデルたちの容姿から〈これは人類がちがう〉との感じを受けたのだ。モデルたちは、素顔をそのまま引き立たせる化粧しかしてなかった。またとくに舞台のうえで、わざとらしい品(しな)もつくらなかった。ただ淡々と出てきて、立ちどまることはあってもまた、ひっこんでゆくだけだった。(中略)

 ファッション・モデルの美しさは、もともとボードリヤールがいうように、「機能的なモノであり、記号の集合体であ」る美しさだ。生のままの肉体や、容貌や、性的なアピールとしての美しさではない。たとえそういったことが加味されて、モデルの容姿の美をつくっているとしても、またそんな機能美や記号美が集積されたとしても〈人類がちがう〉という印象にいたることはできない。そこにはファッション・デザインのおおきな力が発現されているはずだ。

 〈人類がちがう〉という直観的な印象の感じは、内省的に分析すれば、ふたつにわけられるとおもう。ひとつはファッション・モデル自体に、もうひとつはファッション・デザインに。

 ファッション・モデルは、たしかにボードリヤールがいうように「機能美」や「記号美」の象徴だ。いわば高度な人形美が、現在の社会の一般的な水準にある身体イメージの機能性と記号性を、現わしている存在をさしている。

 だがもうひとつの見方がありうる。もし民族文化に共通した伝統の積み重なりが、体形や線、皮膚の色、眼ざし、挙措、容貌に表象されるとすれば、その社会、その人種の最大公約数を、身体のまわりに体現しているのが、ファッション・モデルだということだ。

 ファッション・モデルは「機能美」や「記号美」だから、どんな内面をもっているかはいっさい無になっている。ただ身体の表面、あるいは曲面の輪郭が問われるだけだ。民族文化に共通した伝統が、ファッション・モデルに体現されているとすれば、身体の表面あるいは曲面に滲透していることになる。ファッション・モデルには「機能美」や「記号美」のほかにもっと意味があたえられるかもしれない。

 あるファッション・デザインの衣装を、モデルが身に着けたとき〈人類がちがう〉といった隔絶を感じさせたとすれば、このファッション・デザインは、いわばモデルの身体に体現された文化の純粋な差異を喚び起こす力があったということだ。そしてこの到達できない感じをあたえていることを表象している。

 そしてもうひとつ、このファッション・デザインは模倣によって文化の差異をなくそうとする安易さと、文化の固有な姿を誇張したエキゾチズムで区別や対立を見せかけようとする安易さを、ふたつとも離脱していることだ。いろいろな分野で、いろいろと見せつけられている国際性といったものは、たいていは臆面もなくて鼻白んでしまうような模倣とアレンジの能力であったり、内部からみたらエキゾチズムで受けようとするあまり、実態をゆがめたひどいじぶんの侮蔑にしかなってない。そんななかでこのファッション・ショーで川久保玲が実現しえたものは、わたしたちのあいだではくらべるもののない高度なものとおもわれた。

流行を決めるのは何か

 流行について、ボードリヤールはつぎのような云い方をしている。

     ◇  ◇

 近年の例をとりあげてみよう。ロングスカートもミニスカートも絶対的な価値をもたない。相互の差異関係だけが意味の基準として働く。ミニスカートは性の解放とは何の関係もないし、ロングスカートと対立するかぎりでのみ(流行上の)価値をもつにすぎない。この流行価値は逆転できる。ミニスカートからマキシスカートへの移行は、逆の移行と同じ区別と選択の流行価値をもつだろうし、それから生ずる《美》の効果も同じだろう。

 しかし、明々白々のことではあるが、この《美しさ》(あるいはシック、趣味の良さ、優雅、際立ちといった用語で別の仕方で解釈されてもよいが)は、差異表示用具の生産・再生産という基礎過程の、指標的機能と合理化でしかない。美(《それ自体》)は、循環のなかで流行とは無縁である。それは承認しがたいものである。本当に美しく、決定的に美しい衣装があれば、それは流行を終わらせてしまうだろう。流行は美それ自体を否定し、抑圧し、消失するほかはないーーそのつどの流行のなかで美のアリバイを保持しながらそうするのである。

 このようなわけで、流行は、美しさの根本からの否認に基づいて、また美醜の論理的等価性に基づいて、《美しさ》をたえずつくりだす。それは、最も異常な、最も機能不全な、最も取るに足りない特徴を、際立って差異表示的なものとしておしつけることができる。ほかならぬそこで流行は勝利するのだ。合理性の論理よりもずっと深層の論理にしたがって非合理的なものを押しつけ正統化しながら。(ジャン・ボードリヤール『記号の経済学批判』今村仁司、宇波彰、桜井哲夫訳)

     ◇  ◇

 ボードリヤールの考えはあまりに触覚的で、わたしたちの理論的な口にはあいそうもない。だが云われていることはとてもよく了解できる。

 何がロングスカートとミニスカートの反復(循環)をきめるのか。それは人々がかんがえているほど繊維メーカーやファッション商社の商業主義できまるわけではない。たしかにミニスカートは1965年にアンドレ・クレージュによってはじめてデザインされ、翌年1966年(昭和41年)に、日本にも流行がやってきた。つまり最初の創出者(グループ)は、もし尋ねあてようとすれば、けっしてできないわけではない。個人の名であっても、グループの名であっても、漠然とした専門家の討議の場であっても、具体的にその名を指定することができよう。

 だが、そのあとロングスカートへ向かい、またミニスカートの方向に転じたのはどうしてか、それからまたロングスカートへの傾向をしめしたのは、といった循環と反復を制御しているのは誰なのか、そこにどんなモチーフがかくされているのか。こういったことを解こうとすれば、一般大衆の無意識の集合にまで、はいりこむことになるにちがいない。

 はじめにスカートの適切な長さを決めるのは、いまの衣装にいちばん鋭敏なプロだといえるファッション・デザイナー(の集合体)にちがいない。だがなぜその長さでべつの長さにしないのか、といわれれば、いまの世相にいちばん鋭敏にプロでさえ、じぶんが無意識に感じるものが、大衆の願望と通底していると信じているからだ、と答えるほかあるまい。

 大衆もまた、去年まではミニスカートがいいと確かにおもったのに、なぜいまはくるぶしまでおりてきそうなだぶだぶのロングスカートがぴったりするとおもうのか、説明はできない。みんなが身に着けているからじぶんも着る、という答え方にはふかい意味がかくされている。

 なにが美であり、なにが醜であるかは、誰にもいえないが、そのときそれが美だとおもった、ということのなかには、無意識の構造にまつわる共通項が潜んでいる。そしてそれがファッションの反復と循環をきめている動因のすべてだ。そうだとすれば伝統的な美醜感覚や民族的な固有感覚などが、生半かに跳梁する余地はないというべきだ。

(『吉本隆明全集 22巻』所収、「ハイ・イメージ論Ⅰ」より抜粋)

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