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批評家は何の役に立つのか? 樋口恭介『すべて名もなき未来』より

記事:晶文社

『すべて名もなき未来』(晶文社)
『すべて名もなき未来』(晶文社)

批評家は批評をすることしかできない

 「批評家は何の役に立つのか?」。先日、哲学研究者の福尾匠さんとトークイベントをしたあと、福尾さんと残っていたお客さんたちと雑談していた際にこういう話になった。

 たとえば、小さな社会について考えてみる。友人たちが集まり、一つの社会を構成するとき、そこで自分が何ができるのかを考える。車を運転できる者がいる。魚をとれる者がいる。料理をつくることのできる者がいる。船を操縦できる者や、家を建てることのできる者がいる。そのとき、自分には何ができるのか?

 運転者は車を運転し、釣り人は魚を釣り、料理人は料理をつくる。僕たちは遠い場所へと移動することができ、海や川へ行って魚料理を食べることができる。そのとき批評家には何ができるのか?

 批評家は批評をする。批評家は車を運転することができない。批評家は魚を釣ることができない。批評家は料理をすることができない。批評家は船を操縦することはできない。批評家は家を建てることができない。批評家は批評をすることしかできない。

 批評。それは社会にとって、どのような役割を果たしているのか。誰にとって、どのような仕方で役に立っているのか。

 「批評なんて何の役にも立たない」。むろん、そう即答することも可能だろう。そして現代社会においてはその回答は妥当であると考えられている。現実の話として、批評を学ぶことのできる大学の予算は削られ、会社では「批評家になるな」と言われ、ネット上で批評家は「何もできないくせに」とバカにされる。多くの人は、自分が人生で一度も批評を読んだことがないにもかかわらず、なんとなく批評を役に立たないものと考えている。

 しかし僕は批評を「役に立つもの」として位置づけたい。位置づけたい、というか、実際にそう思っている。

 批評とは、評価の固定された既存の情報を論理的に再構成し、新たな解釈の可能性を提示することであり、一言で言えば、論理によって可能世界を見せることである。AはAだけど、Aだけであるとも言えない。そこにはBの可能性もありCの可能性もあって、Bとする場合かつてAaだったものはBaであり、Cとする場合Aa だったものはCa である。あるいはBbやBc、CbやCcといった選択肢も考えられる。選択した解釈によって、進むべき道は無数に分岐する。そのように、オルタナティブな未来の道筋を提案することが、僕らの社会にとっての批評の役割である。

批評を忘れるということは、可能性を忘れるということ

 みんなで車で川へ釣りに行こうというとき、仲間の中に一度も海に行ったことのない者がいたとする。それまでに、川へは何度も行っていて、とれる魚もつくれる料理もある程度ルーティン化していたとする。川に比べればずっと遠いが、行けなくはない場所に海がある。けれどみんなは新しいことを考えるのはめんどうなので、惰性で川に行こうとする。そんなときに、躊躇なく、海に行こうと提案できるのが批評家である。

 一日の終わりを振り返り、海も悪くなかったなと彼らは言う。それから仲間たちはそれまでの川に加えて海に行くという選択肢も持つようになる。

 過去と現在と未来は、一本の道でつながっているように見える。でも本当は、そこにはいくつも穴が空いていて、その穴に入ると別の道につながっている。歩いているときには気づかないが、道は一つではない。過去は一つではなく、現在は一つではない。未来は一つではない。

 批評家は、道の傍らに小さく空いた穴を指し示し、僕たちに別の道を教えてくれる。硬直したこの社会にあって、それが役に立たないとは、誰にも言わせない。あるいは、それが役に立たないと言いたがる誰かにとっては、そう言うことがそいつの何かには役に立つのかもしれないが、それはそいつであって僕じゃない。

 批評を忘れるということは、可能性を忘れるということで、批評を忘れるということは、硬直したこの愚かな社会を支持し再生産することだ。批評をし、批評家になることで、僕らは別の社会のありかたを思い描くことができる。批評をし、批評家になることで、僕らは社会を柔らかく、豊かなものにすることができるだろう。

 なお、批評家はSF作家と言い換えてもいい。批評もSFも、ここではどちらの役割も似たようなものだ。少なくとも、僕はそう考えている。

(樋口恭介『すべて名もなき未来』より抜粋)

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