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伊丹十三の経験から学ぶ戦中派の批評精神  内田樹『日本の覚醒のために』より

記事:晶文社

『日本の覚醒のために』(晶文社)
『日本の覚醒のために』(晶文社)

伊丹十三の語りにくさ

 僕は、大江健三郎の小説を介して彼の名前を知ったときから、実際に彼の書いたものを読んだ20代のときからずっと、伊丹十三に惹かれてきました。ほかのさまざまなクリエイターや作家については、「ここが好きです」「こういう影響を受けました」ということがある程度言えるんですが、伊丹十三に関してはずっと言えなかったし、いまもうまく言えません。

 「憧れている」のは確かです。でも、どこにどう「憧れている」のかは、よくわからない。それは、英語ができて、国際的なスターとしてハリウッドに進出したからとか、スパゲッティの食べ方を教えてくれたから、スポーツカーの運転の仕方を教えてくれたからとか、そういうレベルのことではない。そのたたずまいそのものの中に非常に純粋なものがある。高貴なものがある。そういう気がします。

 たぶんいまの日本人が一番評価できないのは、人間の高貴さだと思います。「ノーブルである」という形容詞を僕たちはもうほとんど使いません。現代日本人が人を誉めるときに絶対に使わないような形容詞を持つ人物を、われわれはどうやって形容したらいいのか。

 伊丹十三という人を見ると、僕は、「ノブレスの受難」というものを感じます。「デリカシーの受難」とか「善良なるものの受難」という言葉は僕らにもすぐに理解できます。それを主題にした物語もたくさんあります。われわれはそれには慣れています。

 でも、「高貴な魂を持った人の受難」というのは、われわれは見慣れていない。少なくとも、現実生活において、高貴な人物がその魂の高貴さゆえに受難するなどという話は、ほとんど見聞きすることがありません。だから、そういった事例から何かを学ぼうという意欲も僕たちはもう持っていない。でも、その、われわれがいま失いつつある人間的なある種の範例を、この人は体現していたのではないかと思います。

境界線を守る人たち

 今、この年になってきて、40年間にわたってその著作を愛し、映画を見てきた人について、改めて、この人のどこに惹かれたのかといえば、それは一言で言えば、「孤立することを恐れない」ということだったと思います。

 でも、彼が孤立を恐れないでいられたのは、彼の勇気を支え、担保していたものは、実はごく一般的な価値であったからです。何も特殊なモラルや、例外的な人間的純良さを当てにしていたわけではない。「人間は自己を律する規範を持たねばならぬ」「人間は自分の弱さを許してはならない」、そういう当たり前のことを当たり前に実践していた。

 僕は「境界を守る人」という言い方をするんですが、われわれの世界が人間的世界として成立するためには、人間的世界とその外側にある「非人間的な領域」を切り分けている境界線を守る人がいる。そういう人がいなければならない。「非人間的な領域」からは、人間を汚し、損ない、傷つけるものが侵入してきます。

 それは邪悪なもの、暴力的なものという場合もありますし、あるいは、村上春樹が描く「リトル・ピープル」のようなせこい悪意や、見苦しい弱さというかたちを取るときもある。さまざまな形象をまとって、非人間的なものはわれわれの世界に入り込んでくる。それを境界線の向こうに押し戻す。誰かがその仕事を引き受けなければならない。

 弱さとか、憎しみとか、嫉妬とかは、人間的なものだというふうにみなさんは思っているかも知れません。でも、僕はそれは違うと思う。これは、人間世界に侵入してきた「非人間的なもの」と人間的なものが出会ってできたアマルガムのようなものだと僕は思っています。そういう中間的な合成物を通じて、「非人間的なもの」は人間たちの世界に侵襲してくる。邪悪さや嫉妬や暴力や怠惰、あるいは自己憐憫、自己規律の弱さ、そういったものは、そこを通じて「非人間的なもの」が侵入してくる回路なんです。

 だから、いろんな姿をした人たちが、いろいろな名前を名乗って、境界線で歩哨の役をしている。僕は「歩哨(センチネル)」と読んでいますけれど、門番と呼んでもいい。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のように「キャッチャー」と呼んでもいい。

 「ライ麦畑のキャッチャー」はライ麦畑で遊んでいる子どもたちの誰かが間違えて崖から落ちないように、崖っぷちで待ちかまえていて、子どもが走ってきたら、ぱっとキャッチして、元に戻してあげる。「そういうキャッチャーのような人間に私はなりたい」とホールデン・コールフィールド君は言うわけですが、そのキャッチャーもまた歩哨の一種だと思います。

 人間的な社会は自然的に存在するものではありません。人間たちの不断の、真剣な努力があってはじめて、かろうじて成立している。「境界を守る人」たちは、そこに立って、人間社会を崩壊させかねない要素の侵入を食い止めている。でも、それは孤独な仕事なんです。そもそも誰かに依頼されて始めた仕事ではない。誰に命じられるわけでもなく、一人で思いついて、一人でやっている。その仕事のたいせつさは余人には理解されないし、だから尊敬されることもない。彼らが現に救っている人たちでさえ、自分が境界線の守り手たちのおかげで、安穏と生きていられることを知らない。

 そういうかたちで人間的秩序を守っている人間に対しては、われわれは、少なくとも、ときどきはその背中に向かって手を合わせるぐらいのことはしてもいいんじゃないでしょうか。

その仕事は誰かが引き受けなければならない

 今の日本社会からは、「境界線を守る人」が次第に減っています。もちろん、今も必死に崩壊しかけた戦線を守っている人はいます。その人たちの無言の、無償の働きがあるおかげで、われわれの社会はそれでもまだ秩序を保っているし、それなりに住むに堪える場所であり得ています。でも、このあとも境界線を守る人を一定数、安定的に供給してゆかないと、この状況はもう長くは続かない。境界を守る人の数が減るにつれて、われわれの世界には、非人間的なものがどんどん日常生活の中にまで侵入してくる。

 それらがあまりに日常的なかたちを取っているので、見た目はわかりにくいでしょうけども、たとえば、ネットに渦巻く呪いの言葉、政治を語る言説にあふれている攻撃性、他人に対する嫉妬や羨望、そういうものがごく日常的で、ごく人間的な感情でもあるかのような仮装をまとって、日常世界を侵犯している。

 ですから、村上春樹が『1Q84』で書いていることと、伊丹十三が『ヨーロッパ退屈日記』で書いていることとは、実は、本質的には同じことじゃないかという気がするんです。人間が住んでいる人間的な世界を人間が守るためには、誰かが境界線に立って、侵入してくるものを押しとどめなければいけない。その仕事は「私がやります」と言って立ち上がる人間にしかできない。誰も求めないし、誰も命じない、誰も理解しないし、誰も感謝しない。それでもいいと思った人が引き受けるしかない。伊丹十三は、そういう仕事を引き受けた稀有な人の一人ではないかと思います。

 ここにいる方々の中にも、「境界線を守る」ことを自らの仕事として引き受けて、黙々と働いていらっしゃる方がおられると思います。おそらく、評価されることも、社会的な支援を受けることもないでしょうけれども、どうぞ、その仕事をがんばってやり遂げてください。そして、この仕事には、伊丹十三という誇るべき先駆者がいるということを、記憶しておきましょう。

(内田樹『日本の覚醒のために』より抜粋)

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