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〈明るい農村〉はあるのに……。 吉岡宏高著『明るい炭鉱』

記事:創元社

吉岡宏高著『明るい炭鉱』(創元社)
吉岡宏高著『明るい炭鉱』(創元社)

北への視線

 本書の著者、吉岡宏高氏は、1963年に北海道三笠市の炭鉱に生まれた。父は北炭幌内炭鉱で働く「労務屋」であった。

 著者が生まれた1963年に始まったNHKのテレビ番組がある。〈明るい農村〉である。しかし、その頃、明るいイメージを振りまいていたのは農村でも漁村でもなく都市・都会だ。暗い農村から明るい都会へ、誘蛾灯に引き寄せられるかのような人口流出が社会問題となっていたはずだ。なのに、農村は無理やりにでも「明るい」場所にしておかなければならなかったのはなぜなのだろうか。

 もう一つ、農村と同様、常に「明るい」場所であることを半ば強制された場所がある。原子力発電所がそれだ。「僻地」と差別的に呼ばれる場所にばかり建設され、どこから電力が送られてきているかなんて関係ないかのような顔を見せる大都市に電力を送ることを任務とされた、本来明るさとはあまり縁のない場所。なのに、そのイメージはいつも「明るい」ものとして喧伝された。

 「明るい」存在であることを半ば強制された農村や原子力発電所のある場所ではなく、だいたい常に「暗い」イメージで語られ続けた炭鉱に育った著者は、2009年に発行された文化資源学会の学会誌『文化資源学』第8号に「炭鉱は「暗い」のか?―「‘文化’資源としての炭鉱」展からの問いかけ」という論考を寄稿した。そこには、自分が物心ついて以降、常に「暗い」イメージで語られ続けてきた炭鉱のイメージと、実際に見てきた炭鉱の現実とのギャップが、一歩引いた冷静な問題意識や客観的なデータとともに率直に語られていた。

 なかでも注目すべきは、北海道の炭鉱と九州、とくに筑豊地区の炭鉱との比較であった。筑豊が実際に「暗い」厳しい時を迎えた1960年代、著者が暮らす北海道・空知地区の主な炭鉱は最新鋭設備を導入し、生産規模でも筑豊を抜いて、暗くない実相を見せていたのだ。その空知地区の炭鉱がそれなりに「暗い」厳しい時を迎えるのは1970年代以降なのである。しかし、マスコミや為政者ばかりでなく、労働者の側に立つとする政党や組合までもが一丸となって振りまく炭鉱のイメージは、筑豊に代表される暗いイメージばかりで、北海道の明るい炭鉱の存在が広く知られる機会はごく限られたものだった。

 この論考が、2011年の東日本大震災と福島の原発事故の前に発表されていることは重要である。論考で、農村や原発の明るいイメージとの対比を描いているわけではないが、炭鉱イメージの「暗さ」への着目は、原発事故以降に盛り上がった国内エネルギー政策への反省と再考に対し、炭鉱で生まれ育った者の視点から、強い光を当てるものだったからである。この論考は、『明るい炭鉱』の骨格となった。

 著者の吉岡氏は、サラリーマン生活を経たのち、札幌の大学に教職の口を得るとともに、NPO炭鉱[ヤマ]の記憶推進事業団を立ち上げた。2007年のことだ。活動の主軸は、炭鉱遺産を活用した観光業の推進や地域の活性化である。2012年出版の本書では触れようがないが、吉岡氏は2018年に夕張市の石炭博物館館長に就任した。また、2019年には、近代北海道を築く基となった空知・室蘭・小樽の三都を、石炭・鉄鋼・港湾・鉄道というテーマで結ぶ取り組みである「炭鉄港」が日本遺産に登録されることとなる、立役者となっている。

 それらの活動は、日本中を覆う「暗い」炭鉱イメージ、すなわち思い込みと言い換えてもよい、世間の偏見や無自覚な幻想、あるいは都合の良い善意との戦いでもあった。

『ぼくたちの町』

 本書の第二章「ある炭鉱家族の物語[ヒストリー]」の中に、著者が小学校4年の時に書いた作文が転載されている。味わい深く、当時の炭鉱生活を知るのに適しているとともに、なぜ著者が今、上記のようなNPO活動を続けているのかも想像できるものになっている。ゆえにその一部を引用してこの紹介記事を終えたい。

      ◇     ◇   

『ぼくたちの町』  三笠市立幌内小学校四年二組 吉岡宏高

 ぼくたちの町三笠市は、北海道のほぼ中心にあります。となりの町には、産業都市岩見沢市、芦別市、美唄市、それから農業都市栗沢町がとなりあっています。

 市内には幌内炭砿という炭砿があります。おもに、工業用炭を、ほり出しています。幌内炭砿は、立こうで、ケージ(エレベータ)でしざいなどを運ぱんしています。このケージは、つるべ式、つまりかたほうが下れば、かたほうが上るというほう式です。この法式は、幌内炭砿ならでわの法式です。

 もう一つ、幌内炭砿がじまんすることがあります。それは、はい気立こうです。こう内は三十度をこえる温度で、仕事がしにくいのでしやすくするため。それから、ガスをぬくという目的で作りました。はいき立こうは、まだ働いていませんが、来年には働くことでしょう。

 炭砿になくてはならないものは、選炭機です。選炭機というのは、ほり出した石炭を、大きい石炭、小さい石炭、ズリと分けます。選炭機は、いまでこそコンクリートですが、お父さんが、学校へ通っていたころは木ぞうで、火事になって全部はいになったこともありました。

 炭砿は今は一つですが、二十年位前には、十位ありました。「どうしてそんなに炭砿をつぶすのかな」としみじみ思います。(中略)

 町の歴史は古く、九〇年ほど前にかいたくのくわが入れられました。石炭は百年前、明治元年に発見されました。発見した人は、小樽の木村吉太郎という木こりでした。木村吉太郎は、お寺のざい木を切るために、ポロナイ沢(今の幌内)に入いって来ました。ここで黒い石、つまり石炭を発見しました。これが幌内炭砿、石狩炭田の夜明けです。このようにして、市内に竹の子のごとくできた炭砿も、今はたった一つになってしまいました。
このように、かいたくのくわが入れられて約九〇年、今のようにはってんしてきました。げんざいの三笠は、市の中心は官ちょうになって、東西南北にきれいに町なみがのびています。この町の美しさを失なわないようにして、ますます発展していくことでしょう。(本書123-125頁)

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