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倫理学から見た、ゆがんだ正義感の正体 『ふだんづかいの倫理学』

記事:晶文社

『ふだんづかいの倫理学』(晶文社)
『ふだんづかいの倫理学』(晶文社)

正義は一人では決められない

 なぜ法や裁判が必要なのか。それは、たとえ夜神君(マンガ『デスノート』の主人公)のようなとても頭のいい人でも、個人が罪を裁くということになるとどうしても偏りが出来てしまって、釣り合いがとれにくくなるからです。

 夜神君の場合も、なるほど最初は「正義を実現したい」、つまり「罪に対して罰を与えて釣り合いをとりたい」と思ってはいたのでしょう。裁判や警察もあるけど、実際には犯人が捕まらなかったり、証拠不十分とか責任能力がないとかで罰が与えられなかったりして、その釣り合いがとれていないように見える。そこにデスノートという悪魔の手段が手に入ります。「だから僕がデスノートの力で釣り合いをとる!」というのが夜神君の思いだった。

 だけど、実際に夜神君に出来るのは、どの罪に対しても同じ罰、デスノートで殺すことだけでした。しかも、危なくなると、自分を守るためにデスノートで捜査員を殺してしまいました。これだと、もう釣り合いどころの話じゃありません。夜神君は、正義(=バランス)を実現しようとして自分自身が不正義(=アンバランス)を生み出してしまったのです。それも、絶対的な力を持った夜神君が自分一人で全てを決めていたからです。

 正義というのは釣り合いをとることでしたが、こうして見ると、もう一つ大事な点は、それが一人の個人では決められないということ、言い換えれば、社会の仕組みが必要だということなのです。

正義とジコチュー

 正義は個人のものではない。このことはとても大事です。授業では、「正義というのは自分の信念を貫くことだと思います」という意見がかなり出ます。例えば、偉い人が「こうだ!」と決めつけて周りの人もそれに同調しているけど、自分はそれは間違っていると思う、だから、「自分の信念は貫くぞ!」と。まぁ、こんなイメージなんだろうと思います。

 確かに、みんなが間違っていて自分一人が正しいということも、あり得ると言えばあり得ます。それに、「自分一人が正しい」方が「おれカッコイイ」と思えるかもしれない。でもね、自分の中だけじゃあ本当にそれが正しい信念かどうか分からない。それでも「自分は正義だ!」と言い張っていると、結局は夜神君のようなことになってしまいます。

 これではテロリストと同じです。テロリストの人で、「悪いことをしてやろう」と思っている人なんて滅多にいません。彼らは「自分たちは正しいのに人々は言うことを聞かない、世の中が間違っている、こんな世の中破壊してしまわなきゃ! 社会を破壊する方が正しい」と思っているに違いないのです。そう、こうして「正義は暴走する」のです。そして、暴走したらそれはもう正義ではない。

 「正義」という言葉は、元は単に「正しさ、正しいこと」ですし、社会に関してだけではなく、人についても(「正しい人/正義の人」)、行為についても(「正しい行為/正義の行い」)使うことができます。でも、さっき言ったように、「自分の中の正義」なんてものを認めると、結局は何が正義なのか分からなくなってしまいます。そうなったら、正しいつもりでいても、ジコチューにしかなりません。

 正義が社会の釣り合いだとすると、一人の人間の中で成立する、ジコチューなものではありません。

 ただ、我々はそれぞれがそれぞれに「自分/私」ですから、どうしても自分を中心に見てしまいがち。自分にとって自分は特別。だから、そうしたジコチューを抜け出すことはとても難しいし、だからこそ、正義を捉えるのは難しい。

 ジコチューを抜け出すということは、言い換えれば、自分が社会の中の一員であると考えることです。さらに言うと、自分を特別な存在と考えないことです。「特別な存在ではない」と言っても、それで価値が下がるとかそういうことではありません。要は、「人間はみんな同等だ、自分もその一人」と考えるわけです。

正義はホメオスタシスのようなもの

 社会というのは、自分と同じようにそれぞれが「自分」である多くの人が集まっているもの。その中で出来るだけ釣り合いをとる、バランスを保つ、そのことを「正義」と呼んでいるのです。

 人間の体になぞらえて言えば、正義は健康あるいはホメオスタシス(恒常性)のようなもの。全身がバランスよく働いていれば、健康に過ごせます。それと同じように、社会も全体としてバランスがとれていれば、正義が実現されていることになります。

 人間も生きている以上、食べたり飲んだり、入れたり出したりと常に変化しています。そうした中で何とかバランスを保つのがホメオスタシスの働き。同じように、生きていて、常に変化している社会のバランスを、おおよそでもとることが正義なのです。

 ベストセラーになった『生物と無生物のあいだ』を書いた生物学者の福岡さんは、「生きている」とは「動的平衡にある」ことだと表現しています。「平衡」というのは、物理学なんかで使われる言葉ですが、つまりは「釣り合い」のことです(同じことを経済学では「均衡」と呼んでいます)。

 福岡さんによれば、ダイナミックに変化しながらも釣り合いを保つからこそ生きているのだというのです。しかし、これは生物だけじゃありません。社会もそれと同様に、正義という「ダイナミックな釣り合い」があってこそちゃんと機能するのです。

 しかし、体調が大きく崩れて病気になることがあるのと同じように、社会の体調もおかしくなることがあります。釣り合いが崩れるのです。ジコチューな人が、自分の利益のために他の人を傷つけたり、他の人のものを奪ったり。そうしたら、その崩れたバランスを元に戻す。これが正義の働きなのです。

正義は自然には生まれない

 ですが、こういうのはあくまで、たとえでしかないことに注意。特に大事なのは、生命が持っている働きとしての「動的な釣り合い」は自然のものだけど、社会が持っている「動的な釣り合い」は、我々人間の努力によって作り出すしかないということです。

 ただし、「作り出す」と言っても、意識して作り出すという側面ばかりではありません。我々はやはり、無意識のうちに釣り合いを求めています。何かの不正や不公平を見ると、「これは変だぞ」と感じます。これがいわゆる「正義感」。これはそれぞれの人、個人が感じるもの。こうした正義感がなければ、正義を実現しよう、正義を作り出そうという努力も生まれません。

 でも、それを実際に実現していくためには、社会での意識的な取り組みが必要になるのです。後で見ますが、我々が作っている社会のさまざまな仕組み、制度はそのためのものです。すでに見たところでは、警察や裁判所といった制度があります。しかし、そればかりではなく、政治も経済も、実は、そうした正義を実現するための仕組みなのです。

(平尾昌宏『ふだんづかいの倫理学』より抜粋)

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