財政危機のギリシャで、反緊縮の経済学者が財務大臣に バルファキスが記した“現代のギリシャ戦記”
記事:明石書店
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写真の人物をご存じですか? ギリシャの経済学者ヤニス・バルファキスです。彼がたった9日間で書き上げたという『父が娘に語る経済の話』(邦訳はダイヤモンド社)は、世界的なベストセラーとなりました。この本のプロローグに、次のような記述があります(原書より筆者訳)。
この本が出る直前にAdults in the Roomという本を出版したが、それは 2015年のトラウマ的な出来事をありのままに記録したもので、書くのが本当につらいものだった。だが、「娘に」の英語版に関わる仕事が癒やしになった
このトラウマ的な出来事とはどんなものでしょうか? それはAdults in the Roomの日本語版、筆者たちのチームが昨年春に世に出した『黒い匣 密室の権力者たちが狂わせる世界の運命 元財相バルファキスが語る「ギリシャの春」鎮圧の深層』(明石書店)に、克明に綴られています。
ギリシャは2009年に財政が破綻状態にあることが明らかとなり、2010年には債権団トロイカ(欧州連合EU、欧州中央銀行ECB、国際通貨基金IMFの連合体)から「救済融資」を受けました。実はこれはギリシャの人々ではなく、独仏の銀行を救済するものでした。ですが、融資の条件とされた緊縮財政によってギリシャの経済危機は深刻化し、国民所得は2009年から2014年までに4分の1以上も減少、3割近い人々が失業しました。若者たちの未来も暗転しました。年金もカットされました。医療費の切り詰めによってHIV感染者や結核患者、死産などが大幅に増加しました。それ以上にギリシャの人々を苦しめたのは、諸外国からの軽蔑のまなざしでした。当時ヨーロッパ経済危機のさなか、南欧諸国は「ブタ」扱いされました(PIGS、ポルトガル、イタリアとアイルランド、ギリシャ、スペインの略)。当時、欧州の連帯感には亀裂が走っていました。
バルファキスは、緊縮財政に反対する「反緊縮」の経済学者として知られています。写真のように印象的な風貌の持ち主でもあります。しかし『黒い匣』を手にとって下さった方々は、その文才に舌を巻くことでしょう。この回顧録は、欧米の経済や政治という難しいテーマを扱った500ページを超える大著でありながら、ホラーミステリーのような筆致でぐいぐい読ませるのです(ちなみに写真のような出で立ちになったいきさつも書かれていますが、そこはさほどカッコいい場面ではありません)。
バルファキスは「救済融資」に強く反対し続けたため、甘い汁を吸っていた政府関係者やマスコミ、銀行界ににらまれていました。彼の伴侶ダナエの「人となり」がまた、この本の見どころです。ある夜、銀行と関わるマフィアのような男から、バルファキスに謎の脅迫電話がありました。ダナエの息子に対する命の危険を匂わせる電話でした。彼は長らく、この電話のことを彼女に話せずにいましたが、ある日、勇気を出して彼女に話をしたところ、彼女の反応はこうでした、
彼女は責めるように私を睨みつけ、簡潔かつ無味乾燥な一言を発した。「あなたが私たちを守るために政治の世界に入るか、私たちがこの国から出るかのどちらかよ」(p.80)
バルファキスの周囲にはダナエだけでなく、ギリシャの状況を変える政策を論じ合う、経済学者仲間が国内外にたくさんいました。そしてダナエが支持する急進左派連合(シリザ党)の若き指導者チプラス(後の首相)たちとも、このころに知り合っていました。しかし、先のダナエの一言に対して、このときのバルファキスは「それなら、国を出よう」と答えて、2012年の初頭に米国の大学に移籍してしまいます。じかに政治には関わりたくなかったのです。
その後は、米国からギリシャの状況が悪化するのを見ながら、将来ギリシャで政権交代が起こったときのために、トロイカとの交渉に向けた周到な「五本柱の戦略」を策定していました。ときおりチプラスたちにもアドバイスを与えていました。年々、経済状況が悪化するなか、ギリシャの世論はシリザ党政権を待望するようになりました。
そして運命の総選挙を直前に控えた2014年11月、アテネに呼ばれてシリザ党幹部たちに、外部の専門家として戦略を説明したさい、チプラスの口から飛び出したのは意外な申し出でした。「たぶん僕たちが勝つでしょう。そしたら、財務大臣になってほしいのです」。実は、バルファキスは政権への参加を断るつもりでアテネに来ていました。しかし、財務大臣という最重要ポストを提示され、自分が提案した戦略が採用されることになった以上、申し出を拒否することはできません。ダナエとともに急きょ、アテネに戻って選挙を迎えます。
そして、2015年1月25日の選挙でシリザ党が勝利し、チプラス政権が誕生しました。強大なトロイカを相手とする、債務再編をめぐる戦いの火ぶたが切って落とされたのです。人物相関図をごらん下さい。味方も敵方も圧巻の面々で、三国志のような戦記を思わせますが、彼らはみな実在の政治家や経済学者たちです。この錚々たる面々による、ノンフィクションのドラマなのです。
しかしながら戦いは162日で幕を閉じます。バルファキスが財務大臣を辞任することになった日です。世界中のマスコミは彼に不利な報道をしていましたので、彼が途中で責任を投げ出したように思った人も多かったでしょう。しかし、この間に密室(「黒い匣」)の内外でなされた戦いと、「トラウマ的な出来事」は想像を絶するものでした。そんななかで、ギリシャの人々の尊厳のために最後の最後まで、彼と、ダナエを始めとする仲間たちが、敵をも味方に変えようと、どのような姿勢を貫き、奮闘を続けたのか、そこが最も注目していたただきたいポイントです。
日本語版が完成間近となったころ、著者は多忙ななか、日本語版のための序文を(これまたたった1週間で!)書き上げてくれました。彼が伝えてくれたのは、『黒い匣』という物語は、ギリシャを舞台にしていても、日本の歴史や現在とも通底する普遍的な物語だということです。
バルファキスはこの「出来事」の後も、政治の世界から去ることはありませんでした。欧州民主主義運動(DiEM25)という政党を立ち上げたのです。そしてバーニー・サンダースをはじめとする各国の仲間たちと連携して、地球温暖化を防ぐために世界規模の「反緊縮のグリーンニューディール政策」を訴え、昨年夏からはギリシャの国会議員として活躍を続けています。