中世ヨーロッパから続く伝統「紋章」のデザインには意味がある 豊富な写真と図で読み解く『【図説】紋章学事典』
記事:創元社
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紋章の起源には諸説ありますが、盾に描かれた図案をはじまりとする説が有力です。戦場ではまず敵味方の識別が必要ですが、鎖帷子(かたびら)や兜を着用すると、乱戦のなかでは誰が誰だかわからなくなります。それで、各人の盾に識別のための図案を描いたのがはじまりというわけです。
ヘイスティングズの戦い(1066年)を描いた「バイユーのタペストリー」に登場する紋様こそが紋章の最初であるという見方もありますが、本書では紋章(盾)のデザインが急激に発達し、紋章として確立されたのは、それから100年ほどのちのこととしています。
というのは、その頃にはトーナメント(馬上槍試合)がさかんに行われていて、全身を板金鎧に包んだ騎士を特定するために何らかの標章が必要になったからです。参加者(騎士)の存在を知らしめる役割もあったようで、トーナメント会場の柵や参加者が待機するテントにも紋章が描かれていました。
この頃、紋章の専門家である「紋章官(herald)」という役職も確立されました。トーナメントや実際の戦場で各人を識別し、その武功を記録するのが仕事で、このために彼らは個人の紋章をまとめた「紋章鑑(roll of arms)」を作成しました。
ちなみに、紋章図案の盾(shield)を支える動物や人の図案を盾持(supporter)と呼びますが、これもトーナメントに由来すると考えられています。紋章官が参加者の名や肩書を読み上げているあいだ、怪物や天使、古代の英雄などに扮した男性が参加者の紋章を掲げていたそうで、彼らが盾持の起源と言われています。
紋章のデザインは盾をベースとします。盾のみが描かれている場合もありますが、王室の紋章のように盾の周囲に盾持や兜飾(crest)、兜、マント(mantle)、台座(compartment)、標語(motto)などが配されたフルスペックの紋章のことを紋章一式(achievement)と言います。
盾の形は地域や時代によってさまざまですが、ざっくり言えば、ルネサンス以前は実戦で使われた盾の形に似ていて、ルネサンス以降は装飾過多となり、19世紀になると復古調というのか、シンプルな形になります。なお紋章における盾の図案は、男性の紋章には盾そのものが用いられ、女性の紋章では盾の代わりに菱形紋(lozenge)と呼ばれるダイヤ形の図形が用いられます。
兜飾は文字どおり兜の上に配される装飾で、水牛の角や鳥の翼あるいは羽根の飾りがあります。イギリスでは水牛の角や孔雀の羽根はまず使われないとか、スペインでは駝鳥の羽根が多いといった傾向があるそうで、紋章を読み解く手がかりのひとつになりそうです。イタリアの貴族、ヴィスコンティ家の蛇の兜飾のように、伝説をモチーフにしたものもあります(イタリアの自動車メーカー、アルファロメオのエンブレムの蛇がそれです)。
マントは騎士がまとったマントのことで、マントの代わりに天幕(pavilion)が使われる場合もあります。紋章のマントは十字軍と関係があり、中東の強烈な日差しを避けるために身に着けたマントが起源とされています。最初は一枚布でしたが、17~18世紀には小片に切り分けられて装飾的になり、葉飾りのように見えるものも出てきました。
すでにいくつかの用語を紹介しましたが、紋章学独特の用語はまだまだあります。まずは紋章に使われる色について。使用色は国によって若干異なることもありますが、赤色(Gules)、青色(Azure)、黒色(Sable)、緑色(Vert)、紫色(Purpure)を「基本色(Colours)」と言い、金色(Or)と銀色(Argent)を「金属色(Metals)」と言います。配色には大原則があり、「基本色の上に基本色をのせない、金属色の上に金属色をのせない」ことになっています。これは戦場での視認性が重視されているからです。
これに加えて「毛皮模様(Fur)」と呼ばれる柄があります。代表的な柄はアーミン紋とヴェア紋で、前者はオコジョの毛皮の白黒の組み合わせ、後者はリスの毛皮で青と白の組み合わせです。実際の毛皮が貴重なものであったように、毛皮模様はもっぱら王族や貴族の紋章に使われました。
盾の紋地の分割パターンもいろいろあります。古い家系では単色無地の盾もありますが(われわれの思い込みに反して、単純な紋章ほど良いとされています)、個人や家系の独自性を出すためにさまざまなパターンが生み出されました。そもそも紋章は識別のためのツールですからね。
さらに盾に配されるオーディナリー、サブオーディナリーと呼ばれる幾何学模様(図形)にもそれぞれ名称があるのですが、原語からその模様を理解するのはなかなか大変です。
そこで本書では、それぞれの用語になるべく訳語(漢字)を与えてカタカナのルビを付しています。たとえば「へ」の字形のchevronと呼ばれる図形は「山形帯(シェブロン)」とし、盾を縁取る図形のひとつであるbordureは「外縁紋(ボーデュア)」、盾の内側を縁取るtressureは「内縁紋(トレッシャー)」としています。
これらの図形が紋章の持ち主に関する情報を与えてくれる場合もあります。たとえば、国によって仕様は異なりますが、庶子の紋章には逆斜帯(sinister)や波打った斜十字帯(saltire)を入れるというように、身分や関係性を示している場合もあり、オーディナリーやサブオーディナリーは紋章を読み解くうえで重要な手がかりとなることもあります。
紋章学独自の用語や概念を挙げ続けるとキリがありませんが、あと少しだけ、その奥深さが窺える用語を挙げてみます。
勲功に応じて君主が紋章の一部(または新規の図案)を下賜する追加紋は「加増紋(augmentation)」と言います。逆に裏切りの罰として与えられる追加紋は「不名誉の票(abatements)」と呼ばれ、後者特定の図柄や不浄色(stain)が加えられたり、紋章そのものを上下さかさまにされたりしました。
また、結婚によって二つ以上の紋章を統合する方法として「二分割統合(dimidiation)」や「合わせ紋(impalement)」があり、さらに紋章を相続する女性との結婚に際して行われる「紋地分割(quartering)」という方法もあります。
家族内の位置づけを表すものとしては、たとえば王の子供たちに生まれ順に応じて与えられる「続柄標章(cadency)」があり、なかでも長男には「胸懸紋(label)」という標章が与えられます。
日本の家紋とよく比較されますが、西洋の紋章のほうが、細かい約束事がはるかに多いことがおわかりいただけるかと思います。むろん、いずれも固有の文化の上に成立しているのであり、どちらが優れているということはありません。いろいろな見方ができるでしょうが、日本は引き算の美学、西洋は足し算の美学に基づいていると言えるかもしれません。
このように、紋章学の世界には固有の概念と用語がたくさんあって一筋縄では行きませんが、本書では80のテーマを立てて詳細に論じているので、だいたいは理解できると思います。イギリス最古のガーター騎士団やブルゴーニュ公の金羊毛騎士団、ドイツ騎士団をはじめとする宗教騎士団の項目もあれば、各国の紋章の特徴を個別に解説したページもあります。中世好きにはたまらない内容ですね。
そして何より素晴らしいのは、図版の種類と美しさ。本書には、紋章全体やパーツ、関連する絵画やステンドグラスの図版・写真が850点以上収録されています(細かく数えると、もっとあります)。紋章の翻訳企画を立てるにあたって、あまたの海外書籍を渉猟しましたが、図版の点数や美しさの点では本書が随一でした。
そういうわけで、紋章について詳しく知りたい、いろいろな紋章を見てみたいという方に本書はぴったりです。本書を読めば、数々の疑問が解決し、さらに知的好奇心が刺激されるはずです。オリジナルの紋章を作るうえでも参考になるかもしれません。西洋中世の歴史や文化に関心をお持ちの方には、ぜひ書架に並べていただきたい一冊です。