知られざる「創共協定」の舞台裏とは――『池田大作と宮本顕治』の著者・佐高信さん寄稿
記事:平凡社
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1975年に創価学会と日本共産党が「創共協定」を結んだことはほとんど忘れられている。創価学会のドンの池田大作と共産党のトップの宮本顕治が松本清張の仲介で会い、それぞれの立場を尊重しながら強調し合うことを誓った。
池田と宮本の対談は『毎日新聞』に連載され、この年の暮れに『人生対談』(毎日新聞社)として刊行されたが、友好的な雰囲気で進められている。
「私があなたと初めてお会いしたのは、実は20年ぐらい前なんですよ、1対1で」
池田にこう話しかけられて宮本は驚く。
1955年の衆議院議員選挙に東京1区から出た宮本の選挙演説を池田が聞いていたというのである。国電市ヶ谷駅近くの食堂の前だった。当時、25、6歳だった池田が友人と通りかかり、「道を求める青年として、社会主義の指導者の話にも関心を持っていた」池田は友人と別れて、1人で宮本の前に立った。聴衆は結局、最後まで池田だけだったとか。
対談はほのぼのとしたものだったが、池田が創共協定を結ぼうと思ったのは、藤原弘達の『創価学会を斬る』(日新報道)の出版妨害問題で、特に共産党から激しく批判されたのをかわすねらいからだった。
だから、公明党の矢野絢也などには、共産党批判は構わずにやれとけしかけていた。
「自分から協定を結ばせておいて、この二枚舌。ひどい話である」と矢野は呆れているが、結果的にこれは成功した。共産党は学会批判を控えたからである。のちに池田は「創共協定がなかったら公明党は存在していない」と語っている。
池田と宮本でなければ協定は成立しなかったと思うが、その舞台裏はどうだったのか。
私は2人のキャラクターにも興味をもち、たとえば池田の女性スキャンダルをたどる一方で、宮本が年上の百合子と結婚する経緯もさぐった。
というのは、百合子は湯浅芳子と同棲していたからである。チェーホフの翻訳等で知られる湯浅は百合子を愛していた。しかし、百合子は顕治に惹かれるようになり、家をとびだして顕治と結婚する。
そんな逸話もまじえながら、私は創共協定が結ばれるまでと、その後をたどった。
それにしても、疑いから出発するはずの宮本が、なぜ、大作を信じてしまったのか。
最終章を私は「『だました池田』と『だまされた宮本』」としたが、やはり、宮本は共に貧しい者の立場に立つ者として、学会および公明党と連携したかったのだろう。いわば信じたかったのである。
創価学会員の池田への盲信ともいうべきものは、これからどうなるのか。この本を書く過程で私は「池田大作ミイラ化計画」なるものがあることを知った。
レーニンや毛沢東のように遺体を永久保存できないかと、学会のエリート集団が矢野に相談するのである。あるいは、この計画は具体化しつつあるのかもしれないが、現代史のエアポケットを私は明らかにしたつもりである。
ちなみに池田は今年92歳になるが、宮本は20歳ほど年上だった。
(文/佐高 信)