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吉本隆明による「銀河鉄道の夜」小論 宮沢賢治は、なぜカムパネルラの母親を二人描いたのか

『吉本隆明全集 23巻』(晶文社)

生きている母、天上の母

 「銀河鉄道の夜」のなかで、銀河の真っ暗なおおきな孔のあいたそばの、きれいな野原を眺めて、カムパネルラが、あそこがほんとうの天上で、あそこにいるのは「ぼくのお母さんだよ」とゆびさして叫ぶところがある。ジョバンニはそっちを見るのだがただぼんやり白くけむっているだけで、カムパネルラがいったようにどうしても見えない。そんな描写がある。

 わたしたちもここの個所では、おやという気持ちになってしまう。ここのところまで読みすすんでくるまえに、ひとりでにカムパネルラの母親は、心配しながら祭にでかけた息子の帰りを家で待ちもうけているというイメージを与えられている。それなのにカムパネルラの母親は天上にいると書かれている。誰でもここは疑念をもつにちがいない。

 もっとも、前をめくってみても、カムパネルラの母親については、文章には何もかかれていないのだが、先入見はできあがっているといっていい。

 これについては入沢康夫と天沢退二郎が、生きている母と天上の母のふたりが、作者にかんがえられていると解明している。「ひかりの素足」にも楢夫たち兄弟の「前の母」という言葉がでてきて前世の「母」と家で留守をしている「母」のふたりの存在が暗示的に描かれていて、入沢・天沢の解釈をたすけている。

 どうして宮沢賢治はふたりの母を設定しようとしたのだろう。それを解明する課題はのこされる。

「妙荘厳王本事品」との類似性

 「銀河鉄道の夜」のおもな登場人物たちの構図は、法華経の第二十七「妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)」になぞらえられてつくられたという印象を与える。ジョバンニとカムパネルラは妙荘厳王の二人の子供、浄蔵と浄眼にあたっている。

 浄蔵と浄眼は母親である浄徳夫人のところへ行って、いっしょに華智仏のところへゆき法華経を説いているのを聞きましょうという。浄徳夫人は、おまえたちの父親は外道を信仰して、婆羅門の法にかかずらわっている、まず父のところへ行って、いっしょに参りましょうと誘って、仏のところへゆくようにさせなさいと告げる。

 二人の子は母のいうとおりに、父の妙荘厳王のところへゆき、虚空にのぼって、さまざまの神通変化をあらわし、父の王の心を清浄にして仏法を信解するようにみちびいてゆく。

 父王は二人の子供に、おまえたちの師はだれで、おまえたちは誰の弟子なのかとたずねる。二人の子供は雲雷音宿王華智仏が、いまひとびとに法華経を説こうとしておられるが、これがじぶんたちの師であり、じぶんたちはその弟子だと答えると、父王はわたしもその師にあいたいからいっしょに行こうと語る。

 二人の子は虚空からおりて母のところへやってきて合掌し、母に、父王は仏法を信解するこころをおこしました、どうかわたしたちが出家し道を修めることを許してくださいと告げる。母はそれを許したので、父王は延臣たちをともない、母浄徳夫人は後宮のものたちをつれて、仏の前にいって、その教えを聞くことになる。

 王はそのあと国を弟にゆずり、夫人と二人の子供や眷族といっしょに出家し、仏法の修行に志すようになった。

 仏はみなに、この妙荘厳王は現在の華徳菩薩であり、浄徳夫人はいまじぶんの前にいる光照荘厳相菩薩である。また、浄蔵、浄眼というふたりの子供は、いまの薬王菩薩と薬上菩薩だという因縁を語る。

 宮沢賢治は実生活のうえで、いく度も浄土信仰の父親政次郎をこの妙荘厳王になぞらえ、じぶんを子供浄蔵になぞらえたことがあったにちがいない。母親イチが浄徳夫人の役割に耐えたかどうかわからないが、構図としてはそんなことになった。

「銀河鉄道の夜」に匿されているもの

 この「妙荘厳王本事品」では父王を仏法に改信させるおおきな役割をする浄徳夫人は、生きているときの母であり、光照荘厳相菩薩は天上のときの母である。これは「銀河鉄道の夜」のなかでカムパネルラの天上にいる母と生きている母に転化されたとおもえる。また外道を信仰している父妙荘厳王は、作品では〈不在〉のジョバンニの父に移されているとみられる。また実生活のうえでは宮沢賢治の惨憺たる心労のはてに息子の法華経信仰をみとめ、じぶんも改信して息子に報いようとした父親政次郎の姿になぞらえられる。そしてあえていえば黒い服を着たカムパネルラの父は地上の父であり、異稿のなかのブルカニロ博士はカムパネルラの天上の父であるといえようか。

 ジョバンニの母は病床についたままで、ふたりの母の問題はもっぱらカムパネルラの方に移譲されている。そしてはじめに触れたように二人の子供、浄蔵と浄眼は「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニとカムパネルラになぞらえられているとおもえる。

 法華経のなかで、すでに神通の力をもった子供が母親を法華経の講に誘い、そして出家のゆるしを乞い、母親がじぶんの夫であり子供たちの父親である王を、外道の信仰から仏法の信解にひきもどすようにと子供に告げる。こんな重要な役目を負っている記述は、この「妙荘厳王本事品第二十七」にかぎられるとおもう。

 ここでの「母」の構図は男尊女卑の著しい仏教の習俗の流れのなかで宮沢賢治におおきな印象をあたえたのではないだろうか。そしてこの人物の構図は「銀河鉄道の夜」のなかに、巧みなヴァリエーションとして転写されたとみてよいのではないだろうか。

 この作品は、いってみれば解釈可能性の束のようなもので、よく匿(かく)されてはいるが、宮沢賢治の信仰から知識にわたるすべてのものが圧縮されて投げ込まれている気がする。そしてまだよくわからないところが、これから掘りだされてくると、予想よりはるかに大きい容器だということになりはしないだろうか。

(『吉本隆明全集 23巻』 Ⅱ章「宮沢賢治」より抜粋)