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「嘘とほんとうの見分け方」 吉本隆明『吉本隆明全集 第20巻』より  

記事:晶文社

 「重層的な非決定」とはどういうことを意味するのでしょう? 平たくいえば「現在」の多層的に重なった文化と観念の様態にたいして、どこかに重心を置くことを否定して、層ごとにおなじ重量で、非決定的に対応するということです。私はしばしばそれを『資本論』と『窓ぎわのトットちゃん』とをおなじ水準で、まったくおなじ文体と言語で論ずべきだという云い方で述べてきました。貴方は気づいていないふりをして、都合のいい個処を都合のいいようにこじつけるために、私のファッションについての短文を引用していますが、私が『アンアン』に書いたファッションについての短い文章は、柳田国男を論じている文章にくらべて力を落して書いているということは、まったく無いはずです。それは「重層的な非決定」が「現在」に対応する私の理念的な態度だからです。

 これにたいして、一見抑圧されたアジアの諸国の青年に加担するように見せかけられた、貴方のスターリン・ドクトリンは、「現在」から視える世界の諸層を、単層であるかのように短絡させて、強引に倫理の外観を造っているに過ぎません。これこそマルクスがもっとも拒否した態度でした。一般的に差異を飛躍(的に短絡)させると見かけ上は擬似的な倫理を産出することができます。「日本を悪魔と呼んだ青年」と「ファッション雑誌の吉本の写真姿」を短絡させると、一見凄味のある倫理の外観が得られます。けれどこれは擬似的な倫理で、もとより恫喝用以外には意味をなさないものです。しかしながらこのまやかしの倫理は「現在」でもスターリン・ドクトリンの世界では流通しているかに見えるのです。この倫理は、過去にはファシズムとスターリニズムが常套的に濫用して民衆を恫喝した最低の手段でありえました。〈お前は日本を悪魔と呼んでいる東南アジアの青年の叫びもわきまえずにファッション雑誌に写真姿をさらしているのは何事か〉〈お前は前線で汗と血にまみれて生命がけでたたかっている兵士のこともかんがえずに、遊んでいるのは何事か〉。貴方がいま陥ち込んでいる場所は、それとおなじ穴ぐらです。先進資本主義「国」のすでに消費の課題に突入しようとしている大衆は、もう直観的にそういう擬似倫理のまやかしに気づいています。やがていまに叫び声で、民衆の解放を装った民衆抑圧の理念と、それに便乗するまやかしの知識人の倫理を、声をあげて指弾する叡知を獲得するでしょう。

  私の場所からみえる「現在」は(つまり先進資本主義「国」日本にあっては)、モダンやポスト・モダンに単層的に収束できるようにおもわれないのです。ここでは「重層的な非決定」が、どうしても不可避であるようにおもわれてなりません。もちろん「現在」は眼にみえない抽象ではありませんから、個々の事象の端々に、その破片をみようとすれば、誰にでも視られるものです。また「現在」の核心というようなものも、思い描こうとすれば決して描けないものではないでしょう。破片はどれもこれも浅薄で取るにたりないものですし、核心というのもそれを寄せあつめたガラクタにしか視えないかもしれません。でもそれで「現在」が終りだとおもったら間違うようにおもわれます。この浅薄でつまらない破片と、それを寄せあつめただけにみえる「現在」の核心に、何も意味のあるものがないようにみえても、同時にこの無意味さの累層性のなかに、究極のイメージが存在し、そこよりほかに、どんな究極を産出する場所も存在しないということです。

 埴谷雄高さん。

  貴方は『アンアン』にファッションについて文章を書いたり、「コム・デ・ギャルソン」の衣服を着た写真を撮らせている私は、ホマチ仕事をしているので、本来の仕事は心的現象論や柳田国男論にあり、またマス・イメージ論は妥協的にその中間に位するものだなどとみておられるのでしたら、まったくちがうとおもいます。そして貴方に仕掛けられればレーニンについて論評したりもする、いったいどこに収束点があるのか、などと誤解していただきたくないと存じます。これらは私のなかでは、重層的な非決定の、それぞれの層に対応するもので、どれにも同等の重心が存在しており、また同時にどこにも重心が存在しないものとしてあります。それこそが私にとって「現在」という理念の核心にみえるものだからです。

(「重層的な非決定へ――埴谷雄高の「苦言」への批判――」より抜粋)

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