海外に熱狂を生んだ日本の現代アート「アール・ブリュット」
記事:大和書房
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2006年、私はスイス・ローザンヌの美術館であるアール・ブリュット・コレクション(Collection de l’art brut)を訪問しました。そこはジャン・デュビュッフェ(*編集注「アール・ブリュット」という概念を提唱した20世紀の画家)が蒐集した作品群をもとに誕生し、アール・ブリュットの総本山として世界的にも名高い場所です。それまでに訪れたさまざまな美術館や博物館のどことも似ておらず、作品それぞれが発する強烈な存在感と熱気に吸い込まれていく感覚を覚えました。そのアール・ブリュット・コレクションと、2004年の設立以来、日本におけるアール・ブリュットの取り組みで中心的役割を担って来た滋賀県のボーダレス・アートミュージアムNO-MAが、スイスと日本の双方でアール・ブリュット展を共催することになったのは2008~2009年のことでした。私は日本側の事務局として関わりました。展覧会は盛況で、とりわけ海外における日本のアール・ブリュットが知られるきっかけとなりました。
そして、アール・ブリュット・コレクションで開催されたこの「JAPON」展がきっかけとなり、翌2010年に、フランス・パリ市立アル・サン・ピエール美術館(HALLE SAINT PIERRE)で、日本人63名による約900点を展示する「Art Brut Japonais」展が開催されました。同展は多くのメディアに取り上げられました。来場者は、初めて目にする作品群の独自性や創造性に驚かされ、またそこに文化の差異や共通項を見出し、刺激的な展覧会だと評しました。その評判は口コミでも広がりリピーターが絶えず、その結果、会期が延長され、約12万人もの観覧者数を記録する大きな反響を得ることになったのです。この展覧会は、日本国内での関心・評価を著しく高めた、まさにエポックメイキングな出来事でした。
海外の美術館が日本のアール・ブリュット展の開催を求める声は増え続け、2012年からはオランダとイギリスを巡回する展覧会「Outsider Art from Japan」(日本人46名、約850点を出展)が開催されました。私はこの巡回展のキュレーターを務め、各館のディレクターやキュレーターとともに展覧会をつくっていきました。以降も、スイス、フランス、スウェーデン、インドネシア、タイなどで、毎年のように日本のアール・ブリュット展が開催されています。2018年には、東京都とパリ市の姉妹都市提携企画の一つとして、「Art Brut Japonais I 」がアル・サン・ピエール美術館で開催され、6か月間で約10万人の観覧者数を記録し、2010年の展覧会から8年後も変わらぬ人気ぶりを示したのです。
展覧会の開催が増えるに伴い、アート市場からも熱視線が送られています。日本のアール・ブリュットは、主に福祉の領域から創作に関する調査や作品の発表が行われてきた経緯から、障害のある作者が多くいます。こうしたなか、厚生労働省は2013年から、障害のある作者の著作権保護や作品の取り扱いに関する相談窓口の設置を行う事業を各自治体で展開しています。世界的に見ても稀有な取り組みであり、日本のアール・ブリュットが福祉分野で草の根的に取り組まれてきた功績とも言えるでしょう。
さらにローカルな規模で見ていくと、地域(街)×芸術文化(アール・ブリュット)×福祉という取り組みも増えています。私が2010 年から毎年取り組んできた「NAKANO街中まるごと美術館!」は、中野駅周辺の商店街や地域の方々と一緒に進めるプロジェクトです。サブカルチャーの聖地として有名な中野ブロードウェイや、1日約5万人が往来する中野サンモール商店街などを中心に、街を一つの美術館に見立て、実物の作品や作品の巨大バナーなどの展示を続けてきました。買い物や散歩、通勤、通学など日常のふとした景色に、アール・ブリュットが溶け込んでいることは今や馴染みの風景となってきています。アール・ブリュットの作品は実に多様です。そして作者の送る生もまた同様に一人ひとり大きく異なります。それらの作品が私たちの暮らしのなかに存在することは、自分とは違う他者の存在と出会うことです。そして、街こそ、あらゆる世代、ジェンダー、国籍などが入り混じる多様性の鏡であり、アール・ブリュットの作品を展示するのに相性のいい空間だと言えるでしょう。
アール・ブリュットという言葉を誰も知らなかった街が、今ではアール・ブリュットをこの街の芸術文化として取り上げ、伝統芸能やメディア、行政などの他分野と連携した事業を展開しています。「NAKANO街中まるごと美術館!」は、街を舞台に、人と人の、人と街の、そして社会の新たな繋がりを育み、世間に流れる空気や社会に流れるイデオロギーの変容を希求してきました。それは、芸術文化で街や社会を成熟させていく一例として、未来へと続く街の無形の資産となっていくものだと思います。