「揉めること」と「尊重すること」 新しい認知症ケア時代を描く『家族はなぜ介護してしまうのか』より
記事:世界思想社

記事:世界思想社
現在の認知症家族介護は、誰もが昔からやっていたことではありません。むしろ今介護をしている家族は、人類史上初めて、患者のその人らしさを尊重するという問題に取り組んでいる世代、とすらいえるかも知れません。
ある家族会(介護家族の自助グループ)での調査報告会で、私はこう話した。
歴史的にみれば、患者の言ったこと・やったことをそのまま受け取ったり(だからこそ例えば、患者の言うことに怒ったり)、意思疎通が難しくなれば放置したりしていた時代の方が長い。患者数がこれだけ増えたのも、あるいはそもそも「認知症」という概念が成立したのも、最近のことだ。
認知症になり、意思疎通が難しくなった人の思いをくみとろうとする。あるいは様ざまな立場の人びとが、それぞれの立場から患者のその人らしさを尊重しようとする。
こうした介護のあり方は、専門的には「新しい認知症ケア」と呼ばれている。もちろん10年、20年と蓄積がされてきたにしても、まだまだ「新しい」と呼ばれる段階にあるのだ。
だからこそ介護者たちが、特に介護家族が抱える問題について、答えは簡単に出ない。
その家族会では、聴衆であった世話人の一人が、「私たちの悩みは100年経っても解決していないんでしょうね」と感想を寄せてくれた。
ある家族が看取りを終えて会を去ったと思ったら、別の人が介護を新たに始めて、会に参加する。そうやってメンバーの入れ替わりを経験しながら、幾度となく同じような悩みを受け付け、幾度となく同じようなアドバイスを繰り返していく。家族会の世話人たちは、誰もが同じような経験をしているはずだ。それだけアドバイスを繰り返していても、介護家族の悩みを即座に解決するような答えは出せない。
その経験の積み重ねを考えたとき、「100年」という数字は大げさには思えない。
それでは、介護家族はどんな問題を抱えているのか? 本書では特に、「どんな生き方が、その人らしい生き方なのか」を巡り、介護者たちが「揉める」場面に注目している。こうした介護での揉め事は、否定的に評価されがちだ。しかし本書は、そうは捉えない。
介護者たちが揉めてしまうのは、ある患者が見せた多様な姿がもち寄られるからだった。それは、現在のその人の生活についての情報かもしれないし、過去の生き方についてのことかもしれない。誰が、いつ、どこで、どうやってかかわったか。そのときに患者本人はどんな反応をしたか。
そうやって患者個々人の多様な姿を集めていけば、当然、矛盾が生じる場面も出てくるだろう。介護者同士で揉めることもあるはずだ。
しかし、だとすれば、そうやって介護者同士が揉めてしまうことを、私たちはもっと肯定的に評価できるのではないだろうか。介護者同士が揉めてしまうのは、それだけ患者個々人の多様な姿を集められたということだからだ。今この瞬間あるいは、過去のある時点の相手の姿だけではない、その人の見せるいろいろな姿が介護者たちに見えてきた。だからこそ、何がその人らしい暮らしかを巡って、議論となってしまう。
そうやって揉めごとが起こる状況は、誰かが勝手に患者の生き方を決めてしまえる状況よりは、ずっと良いはずだ。
それは確かに、介護者たちにとって大きな負担である。しかし少なくとも、その人らしさを尊重しようという理念は、見失われていない。
その世話人の言う通り、介護者たちは100年後の世界でも、何がその人らしい暮らしかを巡って揉めているのだろうか。もしそうなら、それは100年後の世界でも、私たちが一人の患者について多様な姿を集め、ときに揉めながらも、その人らしい暮らしを目指して介護をしていることを意味するのだろう。
しかしその世界では、そうしたケアのあり方はもはや、「新しい認知症ケア」とは呼ばれていないはずだ。
恐らくそれは、特別な形容詞のつかない、ただの「認知症ケア」と呼ばれていることだろう。
(コラム⑤「ただの『認知症ケア』を目指して」より、再構成して掲載)