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移植医療は認知症の解決策になるのか 小倉明彦『つむじまがりの神経科学講義』より

記事:晶文社

『つむじまがりの神経科学講義』(晶文社)
『つむじまがりの神経科学講義』(晶文社)

神経細胞に分化させることは、実は簡単です

 2006年、京都大学の山中伸弥博士が、マウスの皮膚由来の細胞(表皮ではなく、真皮でコラーゲンをつくっている細胞=繊維芽細胞)に4種類の遺伝子を入れるだけで、あらゆる種類の細胞になれる細胞ができたと報告したとき、学界は半信半疑でした(*1)。

 私は、ちょうどそのころリンパ腫で阪大病院に入院していたのですが、山中博士のセミナーが隣の棟で催されるという案内掲示を見て、パジャマに点滴ポールを引いて聴きに行こうとしたところ、看護師さんに見つかって止められました。あとできくとNHKが取材にきていたというので、行けば絶対ニュースに出てたのにと、悔しがりました。

 このiPS細胞(induced pluripotent stem cell; 人工多能性幹細胞)は、近年稀にみる早さでノーベル賞の授賞対象(2012)となり、臨床応用への展開も進んでいます。2014年には、網膜の加齢黄斑変性症の治療に、患者の皮膚由来の繊維芽細胞からつくったiPS細胞を、網膜色素上皮細胞に分化させ、それをシートにして移植が行われました(心配されたがん化や拒絶反応はなく、治療効果としては、移植前に徐々に低下しつつあった視力が維持されたと、報告には書かれています)。

 細胞を効率よく目的の細胞タイプに分化させる方法や、移植に適した三次元の組織の形に成形する技術(3Dプリンターを使うらしいです)などの関連技術の発展とあわせて、移植医療への期待が高まっていることは、報道などでご承知の通りです。

 iPS細胞であれ、受精卵由来のES細胞(embryonic stem cell; 胚性幹細胞)や従来の他者由来の細胞・組織であれ、故障したマシンを入れ替えて回復を図るという方法は、誰にもわかりやすい治療法です。大量出血したとき、他人の血液を移植して補充する(「輸血」ともいいます)のは、大昔から行われてきましたし(とはいっても、うまくいくようになったのは、血液型などの周辺知識が蓄積した20世紀以降のことですが)、腎臓移植、肝臓移植も、すでに50年以上の歴史があります。提供者の問題さえクリアできれば、心臓移植だって技術的には実用化しています。

 ならば、神経細胞が脱落してしまうアルツハイマー病もレビー小体病も、移植で治療できないかという発想が出てくるのは、当然の流れです。

 ES細胞やiPS細胞を神経細胞に分化させることは、実は簡単です。神経細胞や神経組織を培養することも、実は他の臓器よりむしろ簡単なくらいです。そのうえ、脳は免疫が(ほとんど)働かない特区(大阪で計画されている「統合型リゾート施設」という名の賭場みたいな治外法権地)なので、拒絶反応の心配も(あまり)ありません。

 しかし、神経移植・脳移植の話はあまり聞きません。それはなぜでしょうか。他人の脳を移植したら、他人になっちゃうからでしょうか? 

『探偵ナイトスクープ』に頼めばやってもらえますか?

 そうした倫理的問題ももちろんあります。しかし、それ以前の原理的な問題があります。それは、本書で縷々(るる)説明してきたように、神経系は回路として働くということです。そして、その回路は経験によって築かれるということです。

 血液は量さえあればいいので(本当はそんなこともありませんが、まあ当面のところは)、足せばいいわけです。水を補い酸素を運搬できるならば、フロロカーボン製の人工血液だっていいのです。心臓はポンプですから(本当はそれだけでもありませんが、まあ当面のところは)、他人のものでもいいし、人工ポンプだっていいのです。

 しかし、神経細胞は、数さえあれば機能するわけではありません(*2)。移植細胞に向かって、移植を受けた側の脳から正しいプレ細胞の軸索がやってきてシナプス結合をつくるいっぽう、移植細胞は自分の軸索を伸ばして正しいポスト細胞をみつけ、シナプス結合をつくらなくては、機能しません。

 そう悲観的に考えてばかりいてはキリがないので、そこは遺伝子がうまくやってくれる、としましょう。では、そのシナプスの強さはどのようにして決まるのでしょうか。それは本書で説明したように、経験によってです。

 ということは、移植を受けた脳が故障を起こす前の状態をとりもどすには、故障前と同じ経験をもう一度しなくてはならない、ということになります。素敵なあの子に出会った記憶を取り戻すには、もう一度あの日に帰って、あの子に出会わなくてはならないのです。そんなことできるでしょうか? 『探偵ナイトスクープ』に頼めばやってもらえますかね? 幻滅しなければいいですけど。

 「いや、失った記憶を取り戻そうというわけではない、人生を再出発して新しい記憶を築くのだ」ですって? はいはい。でもね、少年時代の楽しい家族との語らいだからこそ、または「あなたは、わたしの、青春、そのもの」だからこそ、回想するに値するのであって、毎朝起きるたびに、やれ今日は腰が痛い、それ昨日はカミさんに散々愚痴られた、そんな年齢になってから、そればっかりの記憶って、いったいどうなんでしょう。

(小倉明彦『つむじまがりの神経科学講義』より抜粋)

〈注〉*1:Takahashi K, Yamanaka S (2006) Induction of pluripotent stem cells from mouse embryonic and adult fibroblast cultures by defined factors. Cell 126: 663-676.
分化後の細胞から核を取りだして卵に移植することや、分化後の細胞を胚細胞(ES細胞)と融合させることで多分化能(いろんな細胞に分化する能力)を取り戻せる事実から、卵細胞や初期胚細胞には「多分化能復活因子」が含まれているとする考えは、それ以前からあったが、そうは信じない研究者もおり、信じる研究者もそんなに早く見つかるとは予期していなかった。なお、略称のiを小文字にしたのは、アップル社のiPhoneやiPadのもじりだそうだが、その後他大学でも略称の頭を小文字にするのが流行った。H大にも、建物にïFReC と大書した研究施設がある。

*2:2018年10月、京都大学病院でパーキンソン病患者の脳に、iPS細胞からドーパミン産生神経細胞に分化させた細胞が移植された。これは、パーキンソン病患者脳で減少している中脳黒質のドーパミン細胞が、容積性伝達を行う細胞で、数さえあればよい(本当はそんなこともないが、まあ当面は)例外的な神経細胞だからである。乱暴を承知でいえば、徐放性(ゆっくり溶け出す)のドーパミンカプセルを線条体(黒質ニューロンの投射先)に埋め込むのと同じことだ。1982年、スウェーデンで患者自身の副腎髄質細胞(副腎にはドーパミン産生細胞が含まれる)の脳内移植が試みられた。無効だったらしいが、発想は同じである。

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