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右派でも左派でもなく、ど真ん中の中道へ! ポール・コリアーが語る『新・資本主義論』

デジタル化が進む「グローバル社会」を生きるあらゆる世代に向けて、未来への指針を具体的に提示した野心作! ポール・コリアー著『新・資本主義論──「見捨てない社会」を取り戻すために』(白水社刊)は、開発経済学の泰斗ならではの深い洞察をベースに、英国シェフィールドの労働者家庭に育った個人的体験も交じえつつ、資本主義の倫理・道徳的側面にもとづいた「処方箋」の数々を平易な言葉で述べる。右翼でも左翼でもなく、ど真ん中の中道へようこそ。(Author Photo © John Cairns)

私のマニフェスト

 資本主義は多くの成果をあげてきたし、繁栄には欠かせない。だが資本主義経済を過度に楽観視すべきではない。ただ市場の圧力や個人の利益の追求に頼っているだけでは、新たな3つの社会的分裂のどれも修復することはできない。「元気を出して、流れに乗ろうじゃないか」などという態度は的外れなだけでなく、あまりに独りよがりだ。私たちに必要なのは積極的な公共政策だ。だが社会的父権主義は失敗を繰り返してきた。左派は国家に任せておくのがいちばんと考えたが、残念ながらそうではなかった。先導者たちが導く国家こそが倫理観を指針とする唯一の存在だと信じたのだが、それは国家の倫理性を過大評価する一方で、家族や企業の倫理観を軽視した。それに対して右派は、国家による規制の束縛を断ち切れば──これはリバタリアンたちの呪文【マントラ】だ──自己の利益の追求が持つ力を解き放ち、すべての人を豊かにできるとの信念を抱いた。これは今度は市場の魔法のような力を極端に強調する一方で、それを倫理的に抑制する必要性を軽視したのだ。私たちには意欲的な国家が必要だが、左派が言うよりも控えめな役割を引き受ける国家でなければならない。私たちには市場も必要だが、倫理観にしっかりと根差した目的意識によって抑制されていなければならないのである。

ポール・コリアー『新・資本主義論──「見捨てない社会」を取り戻すために』(白水社)目次より

 ほかに適切な表現がないため、社会の溝をなくすために私が提示する諸政策を「社会的母権主義(ソーシャル・マターナリズム)」と呼ぶことにする。それによれば、国家は社会と経済の両方の領域で積極的に役割を果たすが、過度に自らの権力を増大させることはしない。租税政策は強者たちが分不相応な利益を持ち去ることがないように抑制するが、喜び勇んで富裕層から所得を奪い取って貧困層に配るようなことはしない。さまざまな規制はするが、それはまさに資本主義が驚異的なダイナミズムを発揮する活動を挫くためではなく、「創造的破壊」──それは競争によって経済発展を促進する──の犠牲者たちが補償を求めることができるようにするためだ(*)。「社会的母権主義」のもとでは、愛国心が人びとを結束させる推進力となり、不平不満に基づく個々にばらばらなアイデンティティは重視されなくなる。この指針の哲学的基盤となるのはイデオロギーの排斥だ。とはいえ、雑多な思想のごった煮というわけではなく、私たちの多様かつ本能的な道徳的な価値観と、その多様性に当然ながら伴うプラグマティックな妥協とを、進んで受け入れることを意味している。何か特定の単一な絶対的な理性的原理でもって多様な価値観を退けるというやり方は、必然的に対立をもたらすだけだ。互いの多様な価値観を認め合うことは、デイヴィッド・ヒュームとアダム・スミスの哲学に根差しているのだ。左右両極の対立は20世紀の最悪の時期の特徴であり、目下猛烈な勢いで復活しつつあるが、本書が提示する諸政策はそれを乗り越えるのである(†)。

ポール・コリアー著『新・資本主義論──「見捨てない社会」を取り戻すために』(白水社刊)第2章「道徳の基礎──利己的遺伝子から倫理的集団へ」P.050─051より 著者は、道徳の基礎として、したいことよりも「すべき」こと(義務)の大切さを説くにあたって、ホモ・サピエンスの言語こそが「ナラティブ(筋道だった物語)」を伝えることができるのであり、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は逆さまだと語る。

 20世紀の種々の大惨事を引き起こしたのは、熱烈にイデオロギーを奉じていた政治リーダーら──原理を重視した男たち──か、あるいはポピュリズムを売りものにした政治家たち──カリスマ性を持った男たち(そう、たいてい男たちだった)──のどちらかだった。こうしたイデオローグやポピュリストらとは対照的に、20世紀のもっとも成功したリーダーたちはプラグマティストだった。腐敗と貧困にまみれた社会を引き受けたリー・クアンユー〔1923−2015年。元首相〕は、真正面から腐敗撲滅に取り組み、シンガポールを21世紀を代表する繁栄する社会に変えた。分裂目前というほど分断された国家を引き受けたカナダのピエール・トルドー〔一九一九−二〇〇〇年。元首相〕は、ケベックの分離主義を収束させ、誇り高い国家を築いた。民族虐殺の瓦礫の中から、ルワンダのポール・カガメ〔元副大統領・国防相、現大統領〕はしっかりと機能する社会を再建した。著書『ザ・フィックス(The Fix)』の中で、ジョナサン・テッパーマンはこのようなリーダーたち10人を研究し、それぞれが深刻な問題を解決した方策を探究した。テッパーマンの結論は、10人の共通点はイデオロギーを退けたことであり、その代わりに核心的な問題に対するプラグマティックな解決策に集中し、進むにつれて状況に合わせて調整していったことだという。彼らは必要とあらば断固とした態度を示した──有力な集団を優遇しないという決然とした姿勢が彼らの成功の特徴だった。リー・クアンユーは友人たちであっても投獄する覚悟があった。トルドーは同郷のクベック州の住民たちが熱望したにもかかわらず、独立した地位を与えることを拒んだ。カガメは自らのツチ族の仲間たちが軍事的勝利を収めても、戦利品の山分けという旧弊を退けた。そして最終的に成功を勝ち取るまで、彼らはみな激しい批判にさらされたのだった。

 本書のプラグマティズムは道徳的価値観にしっかりと、そして一貫して根差している。しかしイデオロギーを排するから、あらゆる類のイデオローグたちから不評を買うことは確実だ。それは今日メディアを支配している人たちだ。だが「左寄り」というアイデンティティは道徳的優越感を感じるための怠惰な手法となっている。「右寄り」というアイデンティティは自分は「現実的」だと感じるための怠惰な手法となっている。みなさんはこれから本書を通じて倫理的な資本主義の未来を探究することになる──ど真ん中の中道へ、ようこそ。

(注)(*)「創造的破壊」とは、市場における競争を通じ、有能な企業がそうでない企業を駆逐するプロセスを指す。所得が漸増していく現象はほぼこれで説明がつく。これはジョセフ・シュンペーターの造語で(Schumpeter, 1942を参照)、「資本主義の本質的事実」だとシュンペーターは述べた。だからその他の「何々主義」というようなものは、どれほど夢想的な魅力に溢れていても、良くてもせいぜい的外れにすぎないのだ。私たちの社会の将来は資本主義を打倒することにではなく、改良することにかかっているのである。

(†)プラグマティズム、繁栄、コミュニティ、倫理、そして社会心理学という私の提言の構成要素はすべて首尾一貫して結びついている。それは、いずれもデイヴィッド・ヒュームとその友人のアダム・スミスにまでさかのぼれるからだ。スミスの伝記を書いたジェシー・ノーマンが言うように(Norman, 2018を参照)、スミスはプラグマティストだった。逆に言えば、プラグマティズムの淵源はスミスに求めることができるのである──「彼のニュートン主義的な科学哲学が含意していたものを、現代においてもっとも偉大なかたちで追究したのがパースの思想だった」と、ノーマンは言う。パースはプラグマティズムの創始者だ。スミスとヒュームの倫理観は明らかにコミュニタリアンだった。ノーマンも入念に指摘しているとおり、彼らは原始【プロト】功利主義者ではなかったのである。

ポール・コリアー『新・資本主義論──「見捨てない社会」を取り戻すために』(白水社)。

帰属意識の政治学

 私の主張はマルクス主義のバリエーションではない。マルクス主義のイデオロギーは憎悪に満ちたナラティブに立脚し、それは共有されたアイデンティティではなく、極端な階級的アイデンティティをもたらす。相互的な責務ではなく、ほかの階級に属するものを特定の階級が簒奪する権利を主張する。イスラム教原理主義のように、マルクス主義が言う「啓発された利己心」は、国家が「衰亡する」はるかなる楽園を思い描かせる。だがマルクス主義が実際にもたらす結果は、例外なく証明されてきたとおり、社会的な葛藤であり、経済の崩壊であり、衰亡するどころか傲慢かつ残忍な権力の支配を強要する国家なのである。このことは現在もベネズエラからの難民たちの脱出というかたちで現れていて、少しでも関心があれば気づくほど衆目にさらされている。理性的な相互主義を基盤として資本主義を操るプラグマティックな社会と、マルクス主義のイデオローグたちが操る社会との違いは、心やすらかな社会と、募るばかりの憎悪によって引き裂かれている社会の違いである。

 一方、ロールズ主義と功利主義の夢についてだが、家族内の責務を貶め、あらゆる子供たちに対して平等に責務を果たすことを優先したり、国民同士の責務を貶め、世界的な「被害者」集団に対する責務を優先したりしても、エデンの園はつくれない。それは「権利に基づく個人主義」という闇へと落ち込んでいく社会を次世代に残すだけだ。そんなことになれば、将来振り返ってみたとき、功利主義とロールズ主義が中道左派を支配した時代はまさに次のような時代だったと認識されずにはいられまい──傲慢、自信過剰、そして破壊的な時代だ。だがコミュニタリアニズムという本来のルーツに戻るにつれて、そして必死に働く世帯の不安に対処するため、信頼に基づく相互的な義務感の網の再建に取り組むことにより、中道左派は復活するだろう(*)。同様に、強硬な個人主義が中道右派を支配した時代は、本来は偉大なはずの伝統を「エコノミック・マン」が惑わせた時代として理解されるようになるだろう。それは倫理的な姿勢を取り戻すにつれて、「ひとつの国民【ワン・ネーション】」を主眼とする政治に復帰するだろう。今日の新たな不安の数々は極左に丸投げするには深刻すぎる。一方、場所に対する帰属意識は、極右のなすがままにするにはあまりにも力強く、潜在的に建設的なものである。

 新たな不安の数々に直面している今、問題とすべき経済的な脅威は、新たに猛威を振るっている地理的および階級的な格差拡大であることは明らかなはずだ。宗教やイデオロギーにおける過激主義的なアイデンティティの台頭を前にして、問題とすべき社会的な脅威は、対立的なアイデンティティへの断片化──それはソーシャルメディアの「エコー・チャンバー」によって支えられている──であることも明らかなはずだ。ブレグジットとドナルド・トランプの登場以降、問題とすべき政治的な脅威は、排外的なナショナリズムであることは明らかなはずだ。ところがリベラル勢力は共有された帰属意識と、それが下支えできる温和な愛国主義を遠ざけたことで、社会を団結させ、改善策を進めることのできる唯一の原動力を手放してしまった。その結果うかつにも、そして無謀にも、その原動力をいかさまな両極に明け渡してしまったのだ。両極の連中はそれを自分たちの歪んだ目的を実現するために捻じ曲げながら、ほくそえんでいるのである。

 私たちはもっとできる──かつてやったことがあるのだから、もう一度できるはずだ。

(注)(*)2017年12月、私はデンマークの社会民主党に招かれてスピーチをした。同党のすばらしい新党首のメッテ・フレデリクセン〔2015年に中道左派である同党の代表に就任。19年6月に首相就任〕はまさに私と同じ分析結果にたどりつき、同党を協同的でコミュニタリアンなルーツへと積極的に回帰させようとしていた。長期低落傾向を逆転させ、すでに得票率は上昇しつつあったが、大都市の高学歴層だけは例外だった。WEIRD【ウィアード】〔第1章「社会民主主義の勝利と衰退」の項目を参照〕は憤慨して極左へシフトしつつあったのだ。

【ポール・コリアー『新・資本主義論──「見捨てない社会」を取り戻すために』(白水社)所収の第1章「新たなる不安」と第10章「二極分化を超えて」より】

【著者ポール・コリアーによる講演動画(英語) 右下の歯車アイコンをクリックすると字幕翻訳できます。】

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