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皇太子夫妻に石を投げた少年と出会い、石原慎太郎は何を語ったか 大塚英志『感情天皇論』より

記事:筑摩書房

original image: EsanIndyStudios / stock.adobe.com
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 「投石少年」が事件後、保護観察期間中に石原慎太郎を訪ねたことはよく知られている。それは石原がそのことをエセーとして残しているからである。

 投石少年は石原によれば投石事件から二カ月に満たない1959年6月4日、長野での講演を終えた石原の宿泊先を訪問する。投石少年は旅館の客室係に面会の取り次ぎを依頼した。

 名を訊くまでもなく靴をはいた僕の目の前に当人がいた。青い背広を着、顔色の青白い眼鏡をかけた青年はこうした旅先の大体何処ででも出会う地方の文学青年に見えた。「貴方と話したいことがあります」と彼も言った。(石原慎太郎「あれをした青年」『文藝春秋』1959年8月号)

 「話したい」と投石少年が石原に言ったことは案外と重要である。石原は講演先などに出没する文学青年の類と考え、何より「見知らぬ客人の相手は苦手」なので一度は対話の要請を「無愛想に」断る。「人みしり」というのは意外かもしれないが、初期の小説に明瞭に読みとれる石原の繊細な自己像である。

 その人みしりの石原が何故、対話をしようと思ったのか。

 「実は、四月十日にあれをやったのは僕なんです。一昨日出て来たばかりなんですが、そのことやいろいろ、誰かに僕の気持を聞いてもらいたいと思って」聞きながら一瞬、僕には「四月十日のあれ」と言うのが何かわからなかった。僕は彼を見直した。きっと驚いたような表情だったのだろうか、青年は一瞬困ったように顔を赤らめ微笑し返した。僕はその時、ニュース映画で見た。細い体つきの、風に乗って踊るような動作で馬車に向って走り出していった青年の姿を思い出した。スクリーンは青年の顔を映し出しはしなかった。しかし、僕は何故かその時、〝ああ、なる程この人がやったんだ〞とはっきり思った。(前掲書)

 ここでまず投石少年は「あれをやった」「僕」として自身の固有性を定義して見せる。彼自身が既に「名」が不在の「投石少年」として自らを普遍化している。少し遅れて「ニュース映画」の画像を石原は思い出す。そしてニュースでは見えなかった「顔」を見て、この目の前の若者を投石少年だと認識する。しかし石原は目の前にいる投石少年の「顔」の細部をそれ以上、記さない。いわば後ろ姿のままなのである。

 その石原に対して投石少年は「誰かに僕の気持ちを聞いてほしい」と加えて言う。「話したい」と「気持ちを聞いてほしい」との間には微妙な乖離があるのは言うまでもない。その乖離の中に投石少年は不安定に立っている。

 当初、人見知りの石原の前に現われた「投石少年」は鬱陶しいファンであると同時に、対話を不意に求めた得体の知れない人物であるという時点でかろうじて「他者」である。石原という人の小説における主人公がしばしば「他者」への過敏な防御姿勢をとり、一転して相手に「甘える」ことでそれを共感的関係に変えることの詳細は指摘しないが、投石少年が「顔を赤らめ微笑し」(ここで「顔」が描かれる)同時に「気持ちを聞いてほしい」と要求を微妙にずらす、つまり「他者」であることを自らあっさりと解除すると、石原は彼の映像では見えなかったはずの顔の人物を「その人」と根拠なく認知するのである。

 言うまでもなく、この「話した」と「気持ちを聞いてほしい」の差違は本書全体が主題とすることである。彼は自分の行為や天皇制についての考えを論理的に理解してほしいのではなく、「気持ち」をわかってほしい、つまり言語的理解ではなく、共感を希望する者として石原のエセーでは定義される。

大卒の皇太子と頭の優秀な妃

 それにしても「気持ち」をわかってもらう相手の選択が当時、ひどく尊大な形で、まるで今のサブカル思想系のライターのように天皇制を否定して見せていた大江健三郎でなく、石原であったのは、単に保護観察の身であった彼の生活圏の近場にたまたま講演で来たからなのか、あるいは相応の選択を以てのものなのかわからない。無論、石原の記述の記録としての正確さを確かめようはない。だが少なくとも「あれをした青年」は「気持ちを聞いてほしい青年」へと石原によって書き換えられている。

 そして投石少年はこうも石原に言う。

 たゞ誰かに、きちんとこのことを話したい、出来れば日本の人一人一人に僕の気持をきちんと聞いてもらいたいんです。そんな気持で石原さんのところに来ました。とにかく、黙って、最初から聞いて下さい。(前掲書)

 つまり「日本の人一人一人」に「気持ち」を伝えたいがためにその代表として石原は選ばれた、ということになる。石原の文章から読みとる限り、投石少年は自分のことを文章に書いて公表してほしい、という要求をしているのではないことがわかる。

 しかし石原が「話」ではなく「気持ち」を投石少年の言葉として記した内容は、実際には相応にロジカルで明晰な内容ではある。少年が放免の根拠として診断された「分裂病」や一部報道に見られる「知能指数七〇」といった印象を裏付ける印象を石原は書き留めていない。こう記すのは、言うまでもなくそのような人々(という表現自体不適切であるが)に対して、石原が過度の拒否反応をその後示していくからである。つまり石原の記述そのものが皮肉にも投石少年の「正常さ」の立証となる。

 まず、彼はその「動機」をこう「記す」。

 「いえ。僕の動機はそんなところにあったのじゃありません。詮じつめた言い方をすれば、公的なものと私的なものとが国家的にあんな大きな取り違い方をされることが恐ろしかったし、許せなかった。たとい、憲法で何になっていようと、その当人の結婚と言うのはあくまで私的なものです──」(前掲書)

 つまり皇太子成婚を国家的行事として演出し、そこに乗った「ジャーナリズム」や大衆含め「私的なもの」を「公的なもの」にすり替える危うさを投石少年は批判する。行為それ自体は傷害罪になりかねないものだが、論旨としては冷静である。

 しかしそれ以上に興味深いのは、彼がまるで三島の「投石少年論」のように自らを語る点である。

 方々に出ている皇太子の写真を見ている内に、彼のつけている勲章が眼にされるようになった。勲章と言うものが彼や、彼の父親の天皇の象徴であるように思いました。無意味で無価値なものが、意味があり、価値があるものとして押しつけられる間違いの象徴が勲章だと思いました。だから、彼の胸から勲章をもぎとったらその行為がそうした間違いの象徴的な牽制になる筈だと思った。(前掲書)

 つまり過剰な「衣装」の下にある皇太子の「裸」を露呈させようとするのが彼のテロルの目論見である、というのである。だから投石少年はこう語ったと石原はいう。

「彼とじかに眼と眼を合わせて、直接そう言おうと思った」(前掲書)

 三島が「裸」の顔と「裸」の顔で、つまり他者と同時に向かい合う両者の姿を詩として描いたのに対し、少年は一歩踏み込み「他者」同士で話そうと試みるわけである。三島の美が「他者」同士の対峙という刹那の静止画の美に留まっているのに対して、石原は投石少年は「対話」を試みたのだと記述する。

 投石少年の動機についてはこう報じた週刊誌はあった。

石を投げたのは注意を引くためで、お二人の勲章をはぎ取って堀に捨て、いさめてから馬車を宮中に追い返すつもりだった、(『週刊朝日』1959年5月10日号)

 「いさめる」という表現になっているが、暴力的テロではなくコミュニケーションが目的だった、と理解できる。

 この後、少年は一瞬、佐倉宗五郎の「直訴」のことを持ち出すが、「直訴」ではなく「対話」だと言いた気に再びこう軌道修正をする。そして対話の相手としての皇太子をこう評価する。

「彼だって一応最高学府を出ているのでしょう。それに、美智子さんと言う人は彼より頭も優秀な人だと言う噂です。恐らく、彼らだってあのことがまともじゃないとは、少しは、思っているんじゃないか──」(石原慎太郎「あれをした青年」『文藝春秋』1959年8月号)

 つまり皇太子の学歴が「大卒」であることが、対話し得るための教養があるということを担保するはずだ、と投石少年は言うのだ。しかも、それをさらに保証すると彼が持ち出すのは同じく大卒で「彼より頭も優秀」な皇太子妃の存在である。

他者としての天皇はあり得るか

 このように投石少年は「他者」との対話可能性を大学が与えるであろう近代的教養に求めている。三島は実際には対峙し得なかった皇太子と投石少年の対峙を創造した。石原は投石少年が皇太子の中に対話可能な教養に基づく「個」を期待し、対話を望む動機を描いた。そこではともに皇太子への「他者」としてあることの期待が示されている。しかし、三島の「裸」の「皇太子」は「他者」ではなく後の「純粋天皇」的な超越性へと変容していくものだろう。その意味で三島は人間としての天皇との対話に興味など示さない。それに対し、石原の描く、投石少年のあらゆる「他者」に対話可能性を求める姿というのはあまりに素朴な近代への信頼でしかない。(無論、その信頼をぼくは肯定する。)

 しかも興味深いことに、石原は投石少年の皇太子への「他者」たることの期待に彼らしくこう水を差す。

「そんなことはまずないな。絶対にね。殊に彼についての一番の悲劇は、彼が自分自身について考えるという態度を誰からも教わらなかったことじゃないのかな」「そうかも知れませんね。でも、その時は、そうやって僕の直訴を聞いた後で二人が本当に話し合って、近い将来自発的に退位してくれればそれが一番良いと思いました。僕の友人の共産党員と天皇について話し合った時、彼は天皇制は流血革命によらなけりゃなくせないと言ったけど、僕は今時そんな小児病みたいな言い分は通らないと思った。僕らは同じ世代の人間として彼に対する個人的な憎悪は持ち合わしゃしません。ただ、彼の置かれた場が、そして、それのためにとり行われようとしている社会的な間違いが恐しいし、許せないのだ。彼がそれに気づかないなら、当然誰かがそれを言ってやらなきゃならないんです」(前掲書)

 つまり石原は、皇太子は「自分自身について考える」訓練を積んでいない、要するに「個」たり得ないというのである。いわば近代的個人であることを禁じられた存在としての皇太子の属性を指摘する。なるほど、近代あるいは戦後にあって「個人」であることの権利を例外的に剝奪されるのは皇位継承者である、というのは正確な指摘ではある。だからこそ皇太子に「個人」を求めることは理屈の上では、天皇制に対するかなり本質的なテロルである。

 対して投石少年は皇太子が少年との対話によって、「二人が話しあって」(ここで皇太子妃の援助が期待されていることに注意を促しておく)理解してくれるはずだとあくまで対話可能性を主張する。また、皇太子妃と皇太子の関係が互いに「対話」可能な存在として期待されているのも興味深い。繰り返すがその近代的個人としての皇太子夫妻への信頼が投石少年にはある。

対話から共感にすり替える手口

 とりようによっては、投石少年は「他者」としての天皇を露呈させ、そして「話し」「説得」することで天皇制を終わらせようとした、という「テロル」を実行したのであり、三島の文学はその刹那に「詩」を読みとり、そして石原は対話不可能性を主張した、と言える。その対話不可能性の根拠は、皇太子は他者たり得ないという指摘であり、その上で石原は投石少年からも他者性を消去する。

 そのために石原が用いたのは投石少年の「私」への「共感」である。

 「あれをした青年」は、当初は投石少年との面会の顚末のエセーであったはずの一文が突如、少年の主観からなる描写に転じるのである。このような「小説」への飛躍においては、当然だが三島ほどにはテクニカルではない。ただ、同一化する対象の「私」を一人称として語ればいいだけの話である。それはこう書き始められる。

四月十日が来た。天気は晴れ上り、気持が良かった。朝起きた時、気持は馬鹿に落ちついていた。やっと、自分自身に対する義務を果せるような気持だった。(前掲書)

 ここで二度「気持ち」と繰り返している時点で石原が何を試みているかは明らかである。「他者と話す」という皇太子への「テロル」ではなく、投石少年の「気持ち」を描くことにすり替えているのである。「他者との対話」という彼のテロルの本質を石原は、少年の「気持ち」を「小説」にすることで消去しているのである。

 だから石原は、投石少年が成婚パレードの隊列に近づき高揚した人々の中で一瞬で孤立転じる、その主観を描く。

 またわからなくなった。一体、この騒ぎは、この熱狂ぶりはなんだと言うのだろうか。こんなことに、この人たちは本当に、本気で、感動しているのか。見物と言うことだけではなしに、彼らは本気でこの出来事を自分たちの幸せとして喜んでいるのだろうか。人々のどよめきに向って僕はぼんやりと突ったち、ただしきりに周りの人たちの顔を覗くようにして見廻していた。彼らが本気でそうやって熱狂しているとすると、これは一体どう言うことなのだろうか、と幾度も考え直そうと思ったが出来なかった。どよめきの中に僕は本当に一人切りで突ったっていた。(前掲書)

 皇太子をめぐる得体の知れない「感情共同体」から瞬く間に投石少年としての「僕」は疎外され「一人切り」となるのである。

 そして石原は投石少年のテロルをこう書き変える

 〝馬車だ!〞僕は思った。思った時体が走っていた。馬車には屋根がなかった。その上にあの二人がいた。僕は走った。馬車に向って。そして、知らぬ間に石を投げた。自分でも予期しなかった体の内の何かがそうさせていた。馬車だ、と思った瞬間、最初の石が手を離れていったのだ。次の石を持ち換え、また投げた。石は馬車に当ってはねた。僕は走った。馬車は眼の前に、随分大きく見えた。〝追いすがった!〞と思った。走りより手をかけた時、馬車の上で美智子さんが大きく身をのけぞらすのがわかった。言葉が喉から出ない! よじのぼり、中に入って、言おう! その時、追いついた後の手が僕を捉えた。走っていく馬車からあっと言う間に手が離れ、体が落ちた。落ちた瞬間胸を打った。その脚を馬車の車輪が轢いて過ぎるのがわかった。熱く胸苦しい痛みに声が出ない! ひとことひとこと言いたかった。自分の息を殺しながらそれだけを思った。(前掲書)

 石原はこのように自身の主観を投石少年の「僕」と重ね合わせる。近代の「私」を主語とする言文一致体は、書いた瞬間に「私」が立ち現われる魔法の文体だとぼくはしばしば逆説的に語ってきた。このような対象の主観との「共感」、あたかも大川隆法のチャネリングの文学版のような技法は、石原の文学の恐らくは列の最末尾に並ぶはずの田中角栄論で、角栄になりきって描いた手法にも通じていくのかもしれないが、石原は投石少年との間の「他者」性を消去し、同時に皇太子に向かったはずのことばを発せない、つまり対話をできない者として彼を描く。そして何よりこの描写からは、三島が捏造した皇太子の顔、そして、論理的には見た可能性のある皇太子妃の顔、つまり他者の顔が改めて、かつ、周到に消去されているのだ。

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