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なぜ現代の私たちが鈴木大拙を読むのか 英語圏向けに書かれた『禅による生活』から考える

記事:春秋社

鈴木大拙=1963年12月撮影、朝日新聞
鈴木大拙=1963年12月撮影、朝日新聞

なぜ大拙は英語圏に向けて禅を発信したのか?

 今年、2020年は鈴木大拙生誕150年であり、雑誌で特集が組まれたり、大拙の著作が復刊されたり、新しく刊行されるなどしている。

 春秋社でも鈴木大拙の著作三冊が新装版として復刊された。『禅による生活』、『禅問答と悟り』、『金剛経の禅/禅への道』がそれだ。また、『鈴木大拙――その思想構造』という大拙に関する研究書も出ている。

 近刊の三冊を見ればすべてタイトルに禅が入っているように、大拙は禅を広めることに力を尽くした人だった。禅以外にも神秘主義や浄土教にも言及しているし、『日本的霊性』で有名なように、霊性は大拙の思想にとって重要な観点だ。つまり、彼の業績は禅(Zen)だけに留まらない。しかし、とりあえず今回は『禅による生活』での彼に限って語りたいと思う。

 まず何よりも『禅による生活』はもとは英語で書かれている。Living by Zenという1950年に書かれたものの邦訳である。だから、想定されている読者は英語圏の人間である。禅についての本は漢文が中心になることが多いが、現代の日本人にとっては漢文よりも英語の方がまだ身近である。その点で『禅による生活』は現代の読者にとって読みやすい。

 なぜ大拙は英語圏に向けて禅を紹介したのだろうか? その時代の英語圏の人間並みに禅と無縁な私たちが『禅による生活』を読む意義もそこから分かってくるかもしれない。

 大拙は言う。「人間は禅によって、、、、、生きなければならない」と。ここで疑問が生じる。なぜ禅によって生きなければならないのか。そしてそもそも禅によって生きるとは何なのか。

生きることが禅なのだ。つまり、われわれは禅によって生きているのではなくて、禅そのものを生きているのだ。(中略)禅によって生きるというが、これは、その事実を意識しているということの意味である。
この意識がいかに大切なものかということは議論の余地はない。なぜならば、人間の生活の中で「聖なるものデイヴアイン」をその生活の中に認識する以上に大切なことがまたとあるだろうか。

 禅そのものを生きていることを意識することが禅によって生きることであり、その意識は「聖なるもの」を認識するから大切なのである。なぜ禅によって生きなければならないかといえば、それは「聖なるもの」を認識することが重要だからだ。聖なるものは洋の東西を問わない。実際、『禅による生活』では聖書からの引用やキリスト教の思想を絡めた形で禅が語られる。

禅にはあるもの

 大拙は西洋の聖なるものには何かが足りないと考えたのかもしれない。そしてそれが禅にはあると考えたのかもしれない。

仏教徒は、われわれが生まれぬ前の「本来の面目」を見よ、啼かぬさきのカラスの声を聞け、光あれと命ずる以前の神とともにあれ、という。キリスト教徒は、神と神の光を、彼らに命令的に課せられた取り消すべからざるものと考え、かかる限定のもとに救済事業を始める。彼らの「知識」はつねに彼らにつきまとい、このかせを振り落とすことはできない。論理と合理性の犠牲となる。

 足りないものがあるとしたら、それは非合理性だろう。禅は非合理に事欠かない。本書にもその例が多数挙げられている。

「覚山の景通けいつうに一僧がたずねた、
「仏とは何びとですか。」
師は僧を打った。僧もまた師を打った。
和尚がいった、
「お前がわしを打つには理由があるが、わしがお前を打つにはそんなものはないのだ。」
僧は答えることができなかったので、和尚は彼を打って、へやから追い出した。

 そしてその非合理を表現するために日常の生活が持ち出されるのも禅の特徴だろう。

ある禅匠が、仏陀とは何びとかという問いに答えた、
「猫が柱にじ登る。」
弟子がその意味を解しかねる旨を告げると、その師家しけはいった、
「わからなければ柱にたずねろ。」

 「禅による生活には何か普通でないもの、目をみはるような何かがあると考えてはならない。」禅の聖なるものはあたりまえのものであるという非合理を持っている。

 あたりまえのものなら、あえて禅を知ろうとする意味はどこにあるのか? あたりまえに生きているだけでは、そのあたりまえを意識しない。禅を生きているだけでは駄目なのだ。それを意識しなければ。だから、大拙は禅を語って、私たちに意識させようとする。

 それは大拙の問題意識であって、「なるほど禅を意識することは大事だ」と素直に同意できればそれでよいが、多くの人は納得いかないだろうし、大拙によるその意識がなぜ重要かという議論でも説得されないだろう。それは別に現代に限った話ではない。聖なるものは時代に左右されずに、ある層によって受容され、受け継がれてきたのだ。だからこそ、現代においても今までと同様にその価値は揺らがずにそこにあると言うことができる。今までと同様に、復刊されたり、新しく刊行されたりした大拙の著作は、同じ問題意識を持つ読者にとって重要な価値を持つだろう。それは大拙の誕生から150年経った今でも変わらない。

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