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生まれてこないほうが良かったのか? 哲学者・森岡正博さんと「反出生主義」を考える

記事:筑摩書房

iStock.com/portishead1
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私は生まれてこないほうが良かったのか?

 「生命の哲学」がカバーする幅広いテーマの中から、本書ではまずひとつの問いを取り上げて、集中的に考察する。それは「私は生まれてこないほうが良かったのか?」というものである。古来より、この問いは何度も繰り返し問われてきた。「生命の哲学」の中心にある痛切な問いのひとつである。私自身、「生まれてこなければよかった」と思うことはたびたびある。たとえば、私がこれまでの人生で親しい人たちにしてきた様々なことを思い返すたびに、「ああ、こんな私など生まれてこなければよかったのだ」と考えてしまう。あるいは、自分がいずれは死ななくてはならないことに思いを馳せるたびに、「私はなぜ死ななければならない人生へと生まれてきたのだろうか。こんな人生だったら生まれてこなければよかった」と考えてしまう。ふだんはそんなことは忘れているのだけれども、ふとしたときにそれらの考えが私を襲って、不安に陥れる。しかし、もし本当に私が生まれてこなかったとしたら、私の親しい人たちも私と関わりを持つことができなかったことになる。もちろん私は、親しい人たちにつらい思いをさせたことがたくさんあるのだけれども、しかしその逆に、私と関わることによって彼らが幸せや喜びを感じた瞬間もきっとたくさんあったはずである。そしてそれは彼らにとってもうれしい時間だったはずである。もし私が生まれてこなかったとしたら、私が彼らにもたらした苦しみの時間は宇宙に存在しなかったことになるのだが、それと同時に、私が彼らと共有した幸せと喜びの時間もまた宇宙に存在しなかったことになってしまうのだ。

 私が「生まれてこなければよかった」と心の底から思うとき、私は自分が彼らと共有した幸せや喜びの時間もまたなかったことにしたいと願っていることになる。これは、私と過ごすことでほんのひとときであれ幸せや喜びを感じてくれた彼らに対する、一方的でひどい暴力のようにも思われるのだ。「生まれてきたこと」も肯定できず、「生まれてこなければよかった」と思うことも肯定できないとしたら、私はいったいどうしたらいいのか。一つの可能性は、「生まれてこなければよかった」という暗黒をいったんくぐり抜けることによって、その先に「生まれてきて本当によかった」という光明を見ようとする道である。私はそれを「誕生肯定」と呼んで、哲学的に考察してきた。これについては、本書の最後でもういちど戻ってくることにしよう。

人類二五〇〇年の歴史をもつ「反出生主義」の思想

 「生まれてこなければよかった」という詠嘆は、文学の中でしばしば表現されてきた。日本文学においては、太宰治の「生まれて、すみません」(『二十世紀旗手』)が有名である。『斜陽』には、「ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。生れて来ないほうがよかったとみんなが考えているこの現実」との言葉がある。二一世紀の哲学においては、「生まれてこなければよかった」という思想は、広く「反出生主義anti-natalism」と呼ばれている。反出生主義とは、人間が生まれてくることや、人間を生み出すことを否定する思想である。人間たちがこの世界へと生まれ出てくるのは間違ったことであるから、人間たちが生まれてこないようにしたほうがよいとする考え方である。反出生主義にはいくつかのバリエーションがあり、一言でそれらの思想をまとめることはできない。のちに詳しく検討することになるが、デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」もその一つである。

 ベネターは、人間が生まれてくることは例外なく悪いと主張する。生まれてきた人が、友人や家族に恵まれた人生を送り、仕事が成功して幸せに満ちていたとしても、その人が生まれてきたことは、その人が生まれてこなかったことに比べて悪いのだと言う。そしてベネターは、人類の段階的絶滅を提唱する。自殺によってではなく、人類が徐々に出産をあきらめることによって全体としてこの世から消えていくのが良いというのである。

 本書では、反出生主義のうち、自分が生まれてきたことを否定する思想を「誕生否定」と呼び、人間を新たに生み出すことを否定する思想を「出産否定」と呼ぶことにしたい。この二つは密接に結びついているが、私が本書で重点的に検討してみたいのは前者の「誕生否定」の思想についてである。すなわち、「私は生まれてこないほうが良かった」という考え方である。

 実は、誕生否定の思想は、文学において、哲学において、宗教において、古代から綿々と説かれ続けてきた。「生まれてこないほうが良かった」は、人類二五〇〇年の歴史をもっているのであり、現代において突然出てきたものではない。本書ではまず、近現代ヨーロッパの文学と哲学、古代ギリシア文学、古代インドの宗教哲学、現代の分析哲学を、独自の視点から読み直していく。それを通して、誕生否定についてこれまで何が語られてきたのか、そしてどのような哲学的な論点が考察されてきたのかを浮かび上がらせる。その営みの中から、「生命の哲学」のひとつの輪郭線を描いてみたい。

 それと同時に、生まれてきたことへの肯定的な視線にも目を配っていきたい。さきほど引用した太宰治の『斜陽』には、次の言葉が続けられている。「そうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待っている。みじめすぎます。生れて来てよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます」。生まれてきてよかったとは、いったい何を意味するのか。一歩一歩階段を登るようにして、その問いに近づいていきたい。

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