「みんな仲良く」という重圧に苦しんでいる人へ。 複雑な人間関係の中で生きる現代人の処方箋
記事:筑摩書房
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「人は一人では生きていけない」
皆さんは先生やご両親から、よくこうした言葉を聞かされたことはありませんか。テレビドラマなどでもこんなセリフをよく耳にします。「たしかにそうだな、人間一人では生きていけないな」、とこの言葉に素直に納得する人もいるかもしれません。でも反対に「ホントにそうかな。なんかしっくりこないな。人はじつは一人でだって十分生きていけるんじゃないかな」と思う人だっているでしょう。
皆さんはどう思われるでしょうか。
この問いに関する答えの傾向としては、こんな予想が立てられます。年齢が上になればなるほど、そして暮らしている場所が地方であればあるほど、「人は一人では生きていられない」と答える可能性が高い。そして若い年代でしかも都会暮らしであればあるほど、「案外人間は一人で生きていけるのではないか」と答える割合が多いのではないかと。もちろん都会暮らしの若者すべてが「一人でも生きていられる」と考えるわけではないでしょう。しかし全体的にはこうした傾向が見られるのではないかと思われます。
人と人との〈つながり〉の問題を考える最初の出発点として、人は本当に一人では生きられないのか、それとも、まあそれなりに生きていけるのかといった問いを立ててみましょう。
かつての日本には「ムラ社会」という言葉でよく表現されるような地域共同体が存在していました。「ご近所の人の顔と名前はぜんぶわかる」といった集落がそれですね。これは、何も地方の農村や漁村だけに限ったことでなく、東京のような都会にだってあったのです。『ALWAYS 三丁目の夕日』――映画ですから描き方にはフィクションの要素も多分に入っているとはいえ――のように、近所に住む住人同士の関係が非常に濃密な「ご町内」が、昭和四〇年くらいまでの日本には確かにありました。
そんな「ムラ社会」が確固として存在した昔であれば、これは明らかに「一人では生きていけない」ということは厳然とした事実でした。
なにより、食料や衣類をはじめ、生活に必要な物資を調達するためにも、仕事に就くにしても、いろいろな人たちの手を借りなければいけなかったからです。こうした、物理的に一人では生活できない時代は長く続きました。だから村の交際から締め出されてしまう「村八分」というペナルティは、わりと最近まで死活問題だったわけです。
ところが近代社会になってきて、貨幣(=お金)というものが、より生活を媒介する手段として浸透していくと、極端な話お金さえあれば、生きるために必要なサービスはだいたい享受できるようになりました。
とりわけ、今はコンビニなど二十四時間営業の店も増え、思い立った時にいつでも生活必需品は手に入れられるし、ネットショッピングと宅配を使えば、部屋から一歩も出ずにあらゆるサービスを受けることも可能になっています。働くにしても、仕事の種類によってはメールとファックスで全部済んでしまう場合だってあります。
このように、一人で生きていても昔のように困ることはありません。生き方としては、「誰とも付き合わず、一人で生きる」ことも選択可能なのです。
ある意味で、「人は一人では生きていけない」というこれまでの前提がもはや成立しない状況は現実には生じているといえるのです。
さて、こうした現代的状況を目の前にして私が言いたいのは、「だから、一人でも生きていけるんだよ」ということではありません。みんなバラバラに自分の欲望のおもむくままに勝手に生きていきましょうといったことでもありません。「一人でも生きていくことができてしまう社会だから、人とつながることが昔より複雑で難しいのは当たり前だし、人とのつながりが本当の意味で大切になってきている」ということが言いたいのです。つながりの問題は、こうした観点から考え直したほうがよさそうです。
今の私たちは、お金さえあれば一人でも生きていける社会に生きています。
でも、普通の人間の直感として「そうは言っても、一人はさびしいな」という感覚がありますね。本当に世捨て人のような生活が理想だという人もいないわけではありませんが、たいてい、仮にどんなに孤独癖の強い人でも、まったくの一人ぼっちではさびしいと感じるものです。
ではなぜ一人ではさびしいのでしょうか。やはり親しい人、心から安心できる人と交流していたい、誰かとつながりを保ちたい。そのことが、人間の幸せのひとつの大きな柱を作っているからです。だからほとんどの人が友だちがほしいし、家庭の幸せを求めているわけです。
あの人と付き合うと便利だとか便利じゃないとか、得だとか損だとかいった、そういった利得の側面で人がつながっている面もたしかにあるけれども、しかし人と人とのつながりはそれだけではないわけです。
だから、「人は一人でも生きていけるか」という問いに対する私の答えは、「現代社会において基本的に人間は経済的条件と身体的条件がそろえば、一人で生きていくことも不可能ではない。しかし、大丈夫、一人で生きていると思い込んでいても、人はどこかで必ず他の人々とのつながりを求めがちになるだろう」です。
誰でも、「人と親しくなりたい」、「人と人とのつながりの中で幸せを感じたい」と願うものです。本質的に人間は、つながりを求めるものなのです。
しかし、現代は、それを求めることによってかえって傷ついたり、人を追い詰めたりするような状況に陥ることがあります。この本を手に取った皆さんだって、少なからずそんな経験をしたことはあるでしょう。
どうしてそうなってしまうのでしょう。
一つには、「親しさを求める作法」が、いまだに「ムラ社会」の時代の伝統的な考え方を引きずっているからなのだと私は考えています。
じつはご年配の方はもちろん、意外なことに若い人の中にも、その「古い作法」を引きずっている人は結構多いのです。むしろ若い人のほうが、「古い作法」に強く純粋に従っている傾向があるかもしれません。
ある程度社会経験を重ねれば、のらりくらりとかわせることも、若い人は真正面から受け止めてしまいがちです。中学、高校などの部活動における先輩―後輩の関係の作り方などをみていると、そう感じることがあります。一歳か二歳しか違わないのに、かなり厳しい上下の関係を守っている場合がありますね。だから辛いし、ときとして爆発してしまうこともあるのではないでしょうか。
私たちはある種の共同体的なつながりや関係の中で培ってきた、とりわけ日本人的な親しさの作法をお手本にし続けています。そこには確かに、損得を超えて人を全面的に包み込むような温かみや情愛の深さを受け継いでいる面もあるかもしれません。だから無下に否定してしまうわけにはいかないという側面が確かにあります。しかし、みんな同じような職業や生活形態を前提とするムラ的な共同体の作法では、もはや親しさを維持することはできないほど、私たちの置かれている状況は以前とはすっかり変わってしまったと考えた方がいい。ムラ的な伝統的作法では、家庭や学校や職場において、さまざまに多様で異質な生活形態や価値観をもった人びとが隣り合って暮らしているいまの時代にフィットしない面が、いろいろ出てきてしまっているのです。そろそろ、同質性を前提とする共同体の作法から、自覚的に脱却しなければならない時期だと思います。このことは、これを読んでくれる若い人たちにもあてはまるだろうし、何よりもいまの学校の先生や、親御さんにも、ぜひご理解をして頂きたい大事な側面だと私は考えています。
基本的な発想として、共同体的な凝集された親しさという関係から離れて、もう少し人と人との距離感を丁寧に見つめ直したり、気の合わない人とでも一緒にいる作法というものをきちんと考えたほうがよいと思うのです。人と人とのつながりについて、基本的な発想の転換を試みてみようと思うのです。そのことが本書の重要なテーマとなっているのです。
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