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江戸時代の和本を読み解く至福のひととき 『図典「摂津名所図会」を読む』

記事:創元社

江戸時代の版本『摂津名所図会』12冊揃いと本書(右上)。刊行当時の判型は現在のB5判に近い大本(おおぼん)と呼ばれるもの
江戸時代の版本『摂津名所図会』12冊揃いと本書(右上)。刊行当時の判型は現在のB5判に近い大本(おおぼん)と呼ばれるもの

名所ブームの火をつけて

 江戸時代のベストセラー『東海道中膝栗毛』は、弥次郎兵衛・喜多八のおかしな二人組が東海道五十三次を旅する滑稽話だ。作者の十返舎一九は享和二年(一八〇二)より刊行をはじめたこの道中記の成功をきっかけに、江戸後期を代表する戯作者の一人になった。

 背景には、名所ブームがあった。弥次喜多コンビは、伊勢参りの道すがら諸国を見物して歩く。何を見るのかといえば、名所である。

 名所ブームに火をつけたのが、本書のもとになった『摂津名所図会』の著者、秋里籬島(あきさと・りとう)だった。籬島は絵師の竹原春朝斎(たけはら・しゅんちょうさい)と組んで、「名所図会」という新しいジャンルを開拓し、江戸時代の出版界を席巻した。参勤交代のために街道筋の整備もすすみ、庶民が自由に旅行できた時代で、図会は名所観光を楽しみたい人々の旺盛な好奇心を満たす案内書になった。

籬島の大作『摂津名所図会』

 秋里籬島が最初に手がけた名所図会は、京都をテーマに安永九年(一七八〇)刊行した『都名所図会』(六巻十一冊)である。それまでにも京都の案内書は多数出版されていて、もはや新味のある本は出せないと思われていたが、籬島は古今の文学、記録を自在に駆使して数々の名所の来歴と魅力を説きあかし、春朝斎の絵が生き生きとした魅力を添えた。名所と切っても切れない古今の歌と詩句も満載した。

 企画から三年がかりで執筆された原稿は、版下制作、版木彫り、製本にさらに二年をかけて、ようやく出版にこぎつけた。版元の吉野屋がつぎこんだ諸経費はおよそ二千両。その甲斐あって『都名所図会』は、発売から足かけ二年で四千部を売り、資金を回収して少なからぬ利益を出した。当時の出版業界の規模からいえば大成功で、世間の評判も部数以上の影響力があった。

『都名所図会』のあと、籬島は『拾遺都名所図会』(四巻五冊)、『大和名所図会』(六巻七冊)など、次々と新作にとりくんでいく。

 なかでも『摂津名所図会』は九巻十二冊におよび、籬島の名所図会中いちばんの長編である。摂津とは江戸時代の国名で、今の大阪府と兵庫県にまたがる広域にひろがっていた。難波宮の古代の都がおかれ、難波津、兵庫津がひらかれ、住吉大社、四天王寺が歴史を誇り、大坂本願寺の門前町が栄え、江戸時代には日本を代表する商都になった。題材には事欠かない。

 すでに作者としての名声を得ていた籬島は、出版元の経費持ちで取材旅行ができるようになり、取材先も協力を惜しまなくなっていた。寛政八年(一七九六)九月にまず第七巻~巻九巻までの三巻四冊、寛政十年(一七九八)九月に第一巻~巻六巻までの六巻八冊を刊行。数ある大坂の地誌のなかでも決定版というべき大作が、ここに誕生した。

 文は秋里籬島、絵図は過半数が竹原春朝斎の作で、『都名所図会』の名コンビの再現が見られる。他の絵師は丹羽桃渓、竹原春泉斎、下河辺維恵、石田友汀、西村楠亭、西村中和、秀雪亭だったが、全十二冊が刊行されたあと、竹原春朝斎以外の絵は大半が丹羽桃渓のものにさしかえられた。

 単なる観光ガイドにとどまらず、歴史、地理、風俗、伝承、文学にまたがる詳細な解説文と、緻密かつ遊びごころのある絵は、現代人の目で見ても面白く、魅力に富んでいる。特に、竹原春朝斎に次いで多くの絵を手がけた丹羽桃渓の描く名所風俗が、細やかな観察と豊かな人間味を感じさせて面白い。本書では丹羽桃渓も含めて、すべての絵師の作品をとりあげた。

メインで取り上げた絵図は原寸大で掲載。江戸時代の読者はこの迫力あるサイズで絵と文を楽しんでいた
メインで取り上げた絵図は原寸大で掲載。江戸時代の読者はこの迫力あるサイズで絵と文を楽しんでいた

絵の細部を読み解き、題材の背景となる歴史・文化や、地誌をまじえて丁寧な解説をほどこしている
絵の細部を読み解き、題材の背景となる歴史・文化や、地誌をまじえて丁寧な解説をほどこしている

名所絵を読み解く

『摂津名所図会』を郷土史の資料としてだけ見てしまうのはもったいない。生きた現代の読み物として見てこそ、その魅力が味わえる。

 本書ではまず、絵に注目した。『摂津名所図会』の絵は、寺社の俯瞰図、川筋や通りなどの風景図、市や店、劇場などの繁昌図、風俗や名物の紹介図、年中行事図、伝説や物語の再現・想像図などにわかれる。

 驚かされるのは、ひとつひとつの描写の密度の濃さだ。たとえば通りであれば、ならんでいる一軒一軒の店構えだけでなく、暖簾や看板、商品陳列まできちんと描き込んでいる。店の主人と使用人、買い物やひやかしの客、路上の物売り、通りすがりのさまざまな風体の人々は、服装、持ち物、表情が一人一人ちゃんと描きわけられている。馬や野良犬に至るまで、描き方は丹念だ。細部がいきいきとしているから、風景も動きだしそうな気配がある。

 しかも、絵は解説文と対応しつつ、独立した世界をつくっている。連歌師が沿いつつずらしながら次々と句をつけあっていく呼吸にも似て、文と絵がお互いの説明に堕してしまわないところがいい。ときには謎かけめいた遊びもしのばせている。当時の読者にはあたりまえの表現でも、現代人の目には謎めいて見える絵もある。いわばパズルを解いていくような快感が楽しめるのだ。

 そこで本書は、絵からうかびあがる謎をひとつひとつ読み解いていく形式をとった。名所絵の面白さ、奥深さにふれながら、江戸時代の大坂を歩いている気分を、ぜひ味わっていただきたい。

上が『摂津名所図会』の原本。下が細部をより見やすく再現した本書
上が『摂津名所図会』の原本。下が細部をより見やすく再現した本書

名所抜きには語れぬ旅

 江戸時代の旅は名所抜きでは語れない。さまざまな来歴の積み重なった土地、誰もが知っている場所を訪ねることで得られる共感が観光の原点であり、名所の価値であった。現代では、観光に求めるものも昔とは変わりつつある。名所の意味も問いなおされている。しかし、いつの時代にも原点に帰ることには意味があるだろう。

 本書は『摂津名所図会』を絵解きした『大阪名所むかし案内』(創元社、二〇〇六年刊)に大幅な増補・改訂を加え、図典を意図して編纂した新版である。旧版で厳選した三十六景四十点の絵を、大見開きで江戸時代の原本そのままの原寸で掲載し、絵解きの本文を部分図、参考図とともに再構成。さらに『摂津名所図会』の絵として三百四十四点の絵を縮小で掲載し、全図に説明を添えた。『摂津名所図会』には初版(初刷)、後刷版のほか、各種の異本があり、絵にも増減と内容の異同がある。本書には、後刷の原本を基本に、絵師の異なる初刷の絵もすべておさめている。

 名所絵が描く生き生きとした風景をまずは眺めて楽しんでいただきたい。ひとつの絵には、ひとつの旅がある。本書がその道案内になれば、幸いである。

『摂津名所図会』のすべての絵図344点を、解説付きで縮小掲載している。「図典」として巻末索引でキーワードから絵を探すこともできる
『摂津名所図会』のすべての絵図344点を、解説付きで縮小掲載している。「図典」として巻末索引でキーワードから絵を探すこともできる

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