京都を歩き、諸行無常の悲哀を追体験する 小倉紀蔵『京都思想逍遥』より
記事:筑摩書房
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●悲哀のみやこ
京都という都市を、「悲哀するひとびとの記憶の集積したまち」としてとらえてみよう。千二百年以上の時間の堆積のなかで、どれだけたくさんの悲哀が、このまちで繰りひろげられたか。それを思えば、気が遠くなりかける。
坂上田村麻呂に東北から平安京に連れてこられ、河内国で殺された蝦夷の阿弖流為と母礼。源氏と平氏の激烈な角逐の悲史。三条河原で処刑された豊臣秀次の家族たち。六条河原で殉教したキリシタンたち。天皇から最底辺の民衆まで、悲哀する人間たちの絢爛たる絵模様が、このまちにはある。
現実の人物だけが悲哀するのではない。京都の文化の特色として、王朝時代以降のあまたのフィクションの記憶もまた、このまちをかたちづくっている。悲恋、悲話、悲歌、悲劇の数々である。
たとえば『源氏物語』の冒頭は、光源氏の母である桐壺更衣が、宮中のほかの女たち(女御や更衣)から激烈なねたみとそねみとうらみを受けるシーンから始まる。宮中の女たちは桐壺更衣に、実にひどい仕打ちを繰り返す。桐壺更衣はついに病に倒れ、宮中から退出することを願い出るが、彼女に執着する帝はそれをなかなか許さない。彼女の病は嵩じて、ついに退出することになるが、時すでに遅しで、自分と他人の境界すらわからない精神状態に陥ってしまい、そのまま死ぬ。いまでもわたしは上京あたりを歩くと、この桐壺更衣の悲哀が、まちを吹く風のなかにかそけく混じっているような気配を感じる。
●悲哀とは、生のかがやき
悲哀とは、名詞であるだけではない。「悲哀する」という動詞でもある。そして「悲哀する」とは、単に「悲しむ」こととは、異なる。むしろ、単なる「悲しみ」に抗するという意味でもある。なぜなら悲哀するとは、生命することと同義だと考えられるから。生命することは悲しいことではない。だから悲哀することは、悲しむことそのものではない。生を、その極限まで生ききることである。その一瞬の極限に、生の絶頂をかがやかすことなのである。そのはかなさを生ききることが、悲哀することなのだ。
たとえば藤原定家26歳のときの歌、
菊かれて飛びかふ蝶の見えぬ哉さきちる花やいのちなりけん
などは、悲哀する詩歌の絶頂のひとつといえるだろう。〈いのち〉がここではかがやききっている。その一瞬のかがやきそのものが、天才的な表現を得て永遠の力を発している。うつくしく悲哀する歌が、京の大空を駆け巡る。
哲学者の西田幾多郎は、哲学の動機は「深い人生の悲哀でなくてはならない」といった(「場所の自己限定としての意識作用」1930)。この言葉を噛みしめながら、わたしたちは古典から現代までのさまざまな文献を読み、「悲哀する京都」の諸相を解明してみよう。
文献を読むだけでなく、京都市内のフィールドを逍遥しつつ、「悲哀する現場」をからだで感じてみよう。いっしょに歩こう。いっしょに悲哀しよう。平安時代の、室町時代の、江戸時代の、平成時代の無数の生のきらめきを、いっしょに追体験しよう。それこそが、「悲哀する京都」を歩く醍醐味なのである。
京を歩くとは、京を悲哀することなり。
●京都を歩くとは、歴史に抗うこと
京都を歩くとは、どういうことなのだろうか。
それは、歴史を破砕することなのである。
わたしたちが無意識のうちに服従してしまっている、この、だれがつくったかもわからない、不気味で抑圧的な「歴史」というものに、抗うことなのだ。
つまり、多くのひとが考えているのとは違って、京都とは、反歴史的な町なのである。歴史を壊そうという無数の無秩序な意志が、不埒に跳梁している。ニーチェ的だ。因果関係を否定し、権力への意志の闘争として世界はある、と考えるニーチェ。彼のように「反歴史」を生きることが、京都を生きることである。
それでは、「歴史を破砕する」とは、いったいどういうことなのか。
●破砕するパサージュ
たとえば、紫式部(970頃~1019頃)の家があったといわれる場所は、御苑の東側、いまの廬山寺である。河原町通の、今出川通と丸太町通のちょうどまんなかあたりの西側にあたる。ただしいまの廬山寺は、天正年間に豊臣秀吉が移転を命じたあと、北山からここに移ってきたのであって、紫式部が廬山寺にいたわけではない。彼女の邸宅があった場所に、天正年間以後、いまの廬山寺があるわけである。
神宮丸太町の駅から歩くことにしよう(地図)。駅を降りて川端通を北に歩き、しばらくすると鴨川に荒神橋がかかっている。出町柳駅と神宮丸太町駅のまんなかあたりだ。これを渡って鴨川の西岸に渡る。
河原町通に出て北に少し上がると、左側つまり西側に、廬山寺がある。およそ西暦1000年頃に、この場所に紫式部が暮らしていたのである。
このすぐ東には、京都府立医科大学附属病院がある。
日米開戦の報を載せた新聞を持って、京都府立病院に入院中の西田幾多郎(1870~1945)を弟子の相原信作が見舞ったのが、1941年12月8日のことだった。
廬山寺から南に歩く。荒神橋に戻る。
1923年には、中学生の中原中也(1907~37)が、ここにいた。山口中学から立命館中学に転校したのである。東三本木の遊郭だった場所に近いこの界隈を逍遥していたとき、彼は丸太町橋際の本屋で、『ダダイスト新吉の詩』に出会い、そのアナーキーな詩世界に魅了される。やがて彼は、女優の長谷川泰子と同棲する。後年、「汚れつちまつた悲しみは/倦怠のうちに死を夢む」と歌った彼の劇烈な詩精神は、ここで育まれた。
かつてここにあった立命館大学には、1969年、高野悦子(1949~69)が通っていた。『二十歳の原点』を残した彼女は、文学部の学生だった。彼女は荒神橋から河原町通に抜ける道のかたわらにあったジャズ喫茶「しあんくれーる」によく通った。そして1969年、20歳のとき、国鉄山陰線の貨物列車に身を投げて自死した。
またここからは、ジュリーつまり沢田研二(1948~ )が通った名門の鴨沂高校も近かった。かれは1964年に鴨沂高校に入学したが中退、1967年にグループサウンズ「ザ・タイガース」のボーカルとしてデビューする。荒神橋西側のここは、1970年代までは、まさに青春のエネルギーと悲哀の渦巻く場所であったのだ。在日韓国人の早逝した作家・李良枝(1955~92)も、70年代にこの高校に通った。
しかし高野悦子の通った立命館大学の文学部は1978年、金閣寺・竜安寺・仁和寺の近くにある衣笠キャンパスに移転してしまい、1981年にはすべての学部の移転が完了し、荒神橋近くの広小路キャンパスは消滅した。そのかわり、大手不動産会社の超高級マンションが建っている。このマンションから南側のほど近い場所に、江戸時代の歴史家・頼山陽(1780~1832)が「山紫水明処」と名づけた彼の書斎がある。ここから鴨川をはさんで東山を臨む絶景を形容した語だ。当代の名にし負う文人墨客たちが、ここに集った。しかしこの「山紫水明」の4文字も、現代においては、不動産会社が高級マンションを販売する際の広告コピーの言葉となってしまった。文化とは、ほっておけばあっという間に陳腐化するものである。諸行無常のひびきあり。
紫式部と西田幾多郎と中原中也と立命館と高野悦子と鴨沂高校と沢田研二と李良枝と頼山陽と高級マンションと。なんの脈絡も文脈もない、歴史の無秩序である。そのなかを、歩く。
「諸行無常」とは、力を持った者が強引につくろうとする虚構の「歴史秩序」が、世界のすべての無秩序な意志の闘争によって美しく破砕されて乱れ散る様相を語っている。京都は、その破砕の残骸を無防備にさらけだしているまちである。
整序がない。断片である。ベンヤミン式にいうなら、パサージュ(街路、通路、通過、断章)である。ただし京都のパサージュは、単に通過するための街路ではない。通過するだけではなく、破砕するのである。歩くことが、破砕なのだ。
だから京都を逍遥するとは、歴史の諸行無常という悲哀を追体験しながら、権力者がつくりあげる秩序正しい「歴史」に抗うことなのです。