二つの戦争を生き延びた韓国画家の情熱的な半生 『茶房と画家と朝鮮戦争 ペク・ヨンス回想録』
記事:白水社
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白榮洙【ペクヨンス】『回想録』は、主に1945年から56年にかけて、朝鮮戦争中を含む激動する時代の韓国を見つめた貴重な記録である。とともに、21年ぶりに祖国に帰った青年が、さまざまな経験を通じ、やがて仲間を得て画家の道を歩んでいった青春の軌跡ともいえるだろう。
還暦を迎えた1982年、自らの体験を次世代のために書き残しておきたいと考えた白榮洙は、妻金明愛【キムミョンエ】による聞き書きをもとに、文章をまとめていった。韓国の社会状況とも重ね合わせ、画家、文学者、映画人、演劇人、音楽家など、多数の人物たちの横顔を描いている。祖国から遠く離れたパリにいた彼は、一人ひとりの名を呼びかけるように記していったが、その中には若くしてこの世を去った人、北朝鮮へ渡った人が少なからずいる。白榮洙に痛切な思いがあったことは、察するに余りある。
けれど彼の筆は決して感傷的ではなく、困難な時代にあっても、なお芸術への情熱を保ち、懸命に生きようとした人々の姿を愛情込めて描いた。ソウルの茶房【タバン】を舞台に、多彩な分野の表現者たちが出会い、語り合い、ともに創作へと向かった。横断的なつながりと、広がりがあった、熱気をはらんだ時代。その空気をいきいきと伝えている。当時の生活のディテールや風景、とりわけ明洞【ミョンドン】のざわめきに満ちた様子、街をつつんだ匂いなどは、手に取るように描写され、私たちの目の前にありありと浮かんでくる。
ひとつの記憶が、別の記憶を呼び覚まし、それに連なる記憶へとつながっていくように綴られた『回想録』は、ナラティブ(語り手によるライフストーリー)ならではの魅力にあふれている。
しかしながら、執筆当時の韓国の政治状況が緊張状態にあったことは、踏まえておかなければならないだろう。
白榮洙が家族とともにパリに拠点を移した1979年、朴正煕【パクチョンヒ】大統領が側近に暗殺され、さらに全斗煥【チョンドゥファン】、盧泰愚【ノテウ】らによる軍内部の反乱事件「粛軍クーデター」が起きた。翌80年に「ソウルの春」と呼ばれた民主化運動が高揚する中、崔圭夏【チェギュハ】大統領は戒厳令を全国に拡大し、軍部独裁に抗議する市民、学生たちによる民主化運動を弾圧する。中でも「光州民主化抗争」は多数の犠牲者を出した。81年、大統領選挙に勝利した全斗煥は体制の見直しを進めるが、改革を訴える声はさらに高まっていく。82年には釜山【プサン】で「アメリカ文化院放火事件」なども起きた。白榮洙が『回想録』にも記している、朝鮮大学園(現朝鮮大学校)美術科の設立に尽力した光州、また朝鮮戦争時の避難中に画材を受け取った釜山アメリカ文化院での事件をパリで知ったとき、彼の思いはいかばかりだったろう。韓国で大統領直接選挙制を含む憲法改正が実現するのは、87年のことである。
このように母国が緊迫するただ中に執筆された『回想録』は、自らの体験と画家たちを中心とする芸術家たちの肖像とエピソードを中心に据え、政治的状況やイデオロギー対立などについては筆が抑えられている。だが白榮洙が、人物を取り上げる際には細心の注意を払ったうえで、彼らの実像を書き残す責務を自覚していたことが、軽やかな筆運びの中にも感じられるのだ。
同時期に出版された『韓国現代美術史』(1979年、呉光洙【オグァンス】著)で「越北画家」について記述された箇所では、名前の一部が伏せ字で表記されていることからも、彼らのことは繊細に扱わなければならなかったことが推測できる。越北画家が韓国美術史において正当に評価されるのは民主化以降、2000年前後になってからだとされる。白榮洙が1982年の時点で、越北画家を含めた多くの人名をあえて記したのは、彼らの存在を記憶にとどめてほしいという切なる願いにほかならない。
それでも『回想録』を貫くのは、困難な時代にあっても、希望を失わずに生きていこうというメッセージだ。朝鮮戦争中にあっても、豊かな会話が交わされ、茶房には笑いがあり、恋のドラマも、時にはいさかいもあった。懐はさびしくとも、互いをいたわり、芸術への情熱が冷めることはなかった。韓国の民主化がまだ見えなかった当時、白榮洙は若い世代への励ましとなることを願いながら執筆したにちがいない。
[『茶房と画家と朝鮮戦争 ペク・ヨンス回想録』(白水社)所収「解説 白榮洙の人生と時代 境界を越えた自由」(与那原恵)より]