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「韓国がわかる!」つもりになる前に、読んでおきたい7冊 木村幹さん寄稿

記事:じんぶん堂企画室

 「これを読めば韓国がわかる、といったおすすめの本はありますか」

 大学院入試も近づく今の時期、筆者の所には時々そんな問い合わせが寄せられる。そこで期待されるのは、筆者の専門に近い韓国の政治や歴史、さらには、歴史認識問題などについて、「これを読めば全てがわかる!」ような、わかりやすく、そしてそれにより頭の中にある問題がみるみる解決するような著作なのだろう。たとえて言うなら、元NHK記者の池上彰氏がニュースショーでやって見せているような、「そうだったのか!」と膝を叩ける、そんなわかりやすい解説である。

 しかしながら、そんな人々の期待を、筆者の答えはほとんどの場合、裏切ることになる。何故ならば「これを読めば韓国がわかる!」ような、決定的な著作など最初からあるはずもないからだ。

「○○がわかる」と思う前に

 それは、例えば韓国を我が国に置き換えてみればわかる。例えば、あなたがどこかの外国で日本に関心を持っている人に会って、「これを読めば日本がわかる、というおすすめの本はありますか?」と聞かれたとしよう。ほとんどの人はここで頭を抱えてしまうに違いない。日本の歴史について書かれた本を紹介するべきか、あるいは政治や経済について書かれたわかりやすいルポルタージュが良いのか。いや、それとも源氏物語に代表されるような古典文化に関わるものを紹介すべきなのか、あるいは、ポケモンをはじめとする日本のポップカルチャーなのか。

 そして、もう一度考えて、我々は、もっと大きな、そして根本的な問いに直面する。そもそも「日本をわかる」とは一体どういうことなのか。そもそも日本に生まれ今日まで過ごしてきたはずの自分は「日本をわかっている」のだろうか。

 ここで我々は一つの結論に達することになる。そもそも我々は他国が「わかる」という状態がどういうことなのかを理解しておらず、そのために何をすれば良いのかも知っていない。だからこそ、この問いに応えるためには、まずは「わかる」とはどういうことで、そのために何をすればいいのか、から考えてみる必要がある。

 例えば我々がある人を「わかりたい」としよう。それはキャンパスの憧れの彼女であっても、また、常日頃から扱いに困っている職場の若い新人であっても良い。親密になりたいのに糸口が見つからなかったり、あるいはこちらの指導や注意に不愉快な態度を示したと感じたりしたとき、我々は、その人に関わる基本的な経歴を調べようとする。例えば、何年何月にどこで生まれ、どんな学校に通ったか、つまり、その人の「歴史」を調べることである。そうして彼らがこれまでどんな風に生き、暮らしてきたかを想像し、彼らが今日何を考え、学校や職場で何を求めているのかを、知ろうと努めるわけである。

 とはいえ、それでは彼らの経歴を細かく調べれば調べるほど、彼らのことが「わかる」かと言えばそうではない。憧れの彼女に過去に何人のボーイフレンドがいようと、職場の困った新人が受験生時代にどれだけ高い偏差値をたたき出していようと、そんな情報は我々の抱える問題に何の助けにもならないからだ。そしてそのことは、どんなに細かく彼らの過去の事実を調べても、それだけでは各々の事実が「どういう意味を持っているか」はわからないことを意味している。

 ある人の「出身校」を考えればわかりやすい。例えば筆者の勤務校である「神戸大学」の名称は、それだけでは「神戸」という都市にある「大学」という以上の意味を有していない。にもかかわらず、「神戸大学を卒業した」という文章には別途、何らかの意味が付せられていることが多い。そして、このような過去の事実に対する意味は、大きく三つの方向から与えられる。

 第一はこの人物が育って来た社会の側からであり、その大学が何かしらの高い社会的評価を与えられていれば、それを卒業した事実には肯定的な意味が与えられることになる。

 第二に、意味はその人物自身の側からも与えられる。例えば、ある人にとってその大学が幼い頃から進学を目指した憧れの大学であり、またそこで学んだことが社会的成功につながったのなら、そこに通い学んだことには、大きな意味が与えられることになるだろう。逆に、当該大学への進学が大学受験などの不本意な結果によるものであり、またそこでの学業が彼らの将来のキャリアにつながっていなければ、どんなに社会的に評価の高い大学に通い、卒業していても、その人にとっては「黒歴史」としての意味付けしか持たないに違いない。

 最後に――そして最も重要なことは――他者の経歴における過去の事実に対する位置づけは、これを調べる側の人間の側からも与えられる。例えば、社会的には大きな評価を与えられていない大学であっても、観察者にとっては、有名教授がいるとか特定のスポーツが強いなど、何からの理由で憧れの大学であるかも知れない。そしてその場合、この大学を卒業した人は観察者にとって「うらやましい」存在に映るだろう。

 そしてここまで来て我々は「わかる」という行為がなんであるかを知ることができる。例えば、自分にとってはうらやましいような境遇にあるにもかかわらず、当該人物がこれを誇らしいものだと考えていないなら、観察者にはその原因を知りたい欲求が生まれることとなる。つまり、個人や社会を考える場合、それを「わかる」とは、当該人物や社会と、我々の間の認識のギャップを埋めていく作業なのである。

 結局、他人や他者を「わかる」ためには、当該他者に関わる客観的な事実のみならず、その事実が外部の人々と他者自身、さらには観察者によってどの様に評価されているかを知ることが必要になる。そしてこの四者の全てが揃った時、我々はレーダーチャートに航空機の場所を位置づけるように、問題となる他者の存在を自らの頭の中に位置づけ、彼らに対して合理的な働きかけを行うことが出来るようになる。

主観を排し、無色透明な史実を見つめる

 さて、随分前置きが長くなってしまったが、当然、「韓国をわかる」ためにもこれと同じ作業が必要であり、可能ならその作業は意識的に行われる必要がある。そしてその為には、先の四者を分離して、一つ一つ確認しながら進めていく必要が存在する。

 とはいえ、実際にはそれは容易ではない。例えば書店に行けば一目瞭然のように、今日の日本では、韓国についての様々な一般向け著作があふれかえっている。しかし、その中でこの国がどのような国であり、彼らが今日までどのように歩んできたかを、客観的に教えてくれる書籍はほとんどない。何故なら、その多くは、単に韓国の歴史や政治・社会についての客観的なデータとそれに対する自らの解釈、つまり筆者の意見を、ごちゃまぜにして記してしまっているからである。

 しかも悪いことにこれらの著作においては、どこまでが客観的な事実であり、どこからが著者の評価なのかの線引きすら示されていない。だからこそ、これらの著作で「わかる」のは「韓国」ではなく、「韓国に対する著者の意見」に過ぎず、読者にはこれを受け入れるか受け入れないのかの二者択一の選択しか残らない。言い換えるなら、強烈な著者のメッセージが存在し、これに対して「その通りだ!」と膝を叩きたくなるような本は、基礎的な事実を知るためには、最も駄目な本なのである。

 それでは客観的な事実を知るためには、優れた研究書を読めばよいのだろうか。実はこれもまた間違いである。今日の研究者の世界では、各々の研究書は特定の「学問的問い」に応えるために書かれている。そしてコンパクトで優れた研究書であればあるほど、不必要な脱線は少なく、直截に結論へと導かれていく構造になっている。時にその論証の過程は――理解さえできれば――推理小説のようにエキサイティングであるが、それにより多くの情報量が提供され、韓国の歴史や政治、社会の多くの情報が得られるわけではない。どんなに熱心にシャーロック・ホームズを読んでも、それだけで当時のイギリス社会や政治がわかるわけではないのと同じことだ。

 だとすると、我々はまず何を読むべきなのか。答えは歴史について言うなら、まずは通史、しかも無色透明で淡白な通史、だということになる。言い換えるなら、読んでいてわくわくするような書籍はここにおいては不適切だ。何故なら我々が読んでいて胸躍るのは、そこに何かしらのストーリー性があるからであり、著者の強烈な視線が存在するからである。しかし、一旦強固に著者の視線に縛られれば、我々はもはやその対象を客観的に見られなくなってしまう。

 それはあたかも夜中のバーで、友人が新しく付き合い始めた「彼女」について、いかに素晴らしいかを延々と聞かされるようなものであり、それがどんなに説得力があり熱く語られても、我々の頭に残る「彼女」のイメージは実像から大きく離れてしまう。何故ならそこにおいて聞かされたのは、あくまであなたの友人の「彼女」への思いであって、「彼女」そのものについてではないからだ。

 ということで、選ぶべきは淡白で読んでいてもあまりわくわくしない、裏を返せば読んでいて退屈ですらある著作だ、ということになる。そしてそれは同時に「あまり売れない著作」でもあることになる。

 しかし、幸い朝鮮史には、そんな著作がいくつかある。

 その代表的な著作が、李成市・宮嶋博史・糟谷憲一編『朝鮮史』Ⅰ、II、世界歴史大系(山川出版社、2017年)である(念のため筆者はこの著作を今全力で褒めているので、著者は誤解しないで欲しい)。

 副題からも明らかなように、この書籍は歴史教科書でも定評がある山川出版社の世界歴史大系の一部として刊行されており、必要なら、同じシリーズの他国に関わるものを手に取って、比較しながら読むことができる。第1巻が先史時代から朝鮮王朝期までを一挙に扱う一方で、第2巻の全てを近現代史に当て、開国以後の歴史を多くのページを割いて説明してくれるのも有難い。この第2巻の第5章は、1980年代からこの著作が出版された2017年までの歴史をも扱ってくれており、まさに先史時代から「今」までを見通せる構造になっているからだ。

 読者にとっては7000円を超える価格が最大の難点であるが、それはこの著作が最初から「あまり売れない」構成になっているのだから仕方がない。古書店で入手したり、図書館のカウンターに駆け付けたりして、まずは押さえておきたい一冊、いや二冊である。

公式見解をひもとき、彼ら自身の認識を知る

 客観的な事実が押さえられれば、次にすべきは自らの経験を彼らがどう考えているか、を調べることである。ここでも書籍を選ぶ際に、考えなければならないことがある。それは韓国も5000万人以上もの人が住む一つの社会である以上、そこには歴史や政治、社会等に対して様々な考えがある、ということだ。

 2017年の朴槿惠前大統領の弾劾運動に典型的に表れたように、現在の韓国社会は保守派と進歩派の二大勢力に大きく分断されており、両者の間では歴史認識を巡る問題や、政治、経済、社会における様々な議論が激しく戦わされている。そしてその中では特定の党派に偏った著作を読んでも、それによって韓国の人々の認識の全体像を得ることは出来ない。

ではそんな時に、我々はどうやって彼ら自身に対する彼らの認識を知ればいいのだろうか。第一の方法はとりあえず「公式の見解」を押さえることである。例えば歴史については韓国では依然、政府による教育内容への強い統制が続いているから、その教科書を見れば彼らの公式見解を知ることが出来る。

 幸い、韓国の教科書の多くは日本語でも翻訳されており、入手は比較的容易になっている。例えば、イ・インソク他『検定版 韓国の歴史教科書―高等学校韓国史(世界の教科書シリーズ39)』(明石書店、2013年)は、少し古くなっているものの、韓国の公的な歴史認識の一端を知るものとして依然、有用な著作である。

 歴史ではなく彼らが持つ価値観に迫りたい、というのであれば、「道徳」の部分を見ることも重要だ。近年の教科書で日本語に翻訳されたものはないが、幸い、関根明伸『韓国道徳科教育の研究: 教科原理とカリキュラム』(東北大学出版会、2017年)を通じて、我々はその一端を知ることができる。この分野に関する数少ない研究成果であり、もっと注目されても良い著作である。

 他方、公式見解のみならず、多様な韓国社会の多様な自らに対する認識の様子を知る為には、チョ・ファスン他『ビックデータから見える韓国』(白桃書房、2017年)がある(監訳者は不肖筆者である)。この本ではSNSから得られたビッグデータを利用して、韓国の人々がどのような議論を行い、どの様な世論の分断状況にあるかをデータによりわかりやすく示している。2600円と価格も手ごろであり、手に取ってみるのも一興だと思う。個人的な願いを書いておけば、こちらは出来れば買ってほしい。

外部の人々の著作から「他者」への見え方を知る

 他方、韓国の歴史や社会、さらに政治は、他者にはどのように見えているのか。この点については逆に韓国社会にいる人々ではなく、その外部にある人々のものを紐解く必要がある。

 この点についてまず挙げるべき古典的著作は、グレゴリー・ヘンダーソン『朝鮮の政治社会』(サイマル出版会、1997年)である。この原著となる、Korea: The Vortex of Politics (Harvard University Press, 1968)は既に半世紀以前の著作であるが、韓国社会の構造を、権力を中心にうごめく「渦巻」に例える叙述は、今日においても依然、極めて有用だと言える。

 朝鮮半島を巡る現在進行形の事象に関心を持っているなら、いっそのこと他国の政府要人が書いたものを直接読んでも良い。その点、今話題のJohn Bolton, The Room Where It Happened, (Simon & Schuster, 2020年) は文句なくおすすめの著作である。マスメディアにより面白おかしく書かれる断片を離れて、ホワイトハウス要人の一人だったボルトンは韓国や北朝鮮、さらには日本をどう見ていたのか。英文も平易であり、大学生にとっては洋書に慣れるための良い教材にもなりそうだ。

日本人全体が持つバイアスを知り、自身のバイアスを認識する

 最後に我々自身の視覚である。個々人については、自らのバイアスについて自ら振り返るほかはないが、日本人全体が持つバイアスなら、幾つかの著作を通じて確認することが出来る。例えば最近に出された著作であれば、澤田克己『反日韓国という幻想』(毎日新聞出版、2020年)は、韓国の現状と照らし合わせながら、我々の韓国に対する認識にどのようなバイアスがかかっているかの一端を教えてくれる良著である。

 現在における日本人の韓国に対する認識がどのように形成されて来たか、については、実は筆者自身の主要な専門分野の一部になっている。『日韓歴史認識問題とは何か』(ミネルヴァ書房、2014年)や、『平成時代の日韓関係』(ミネルヴァ書房、2020年)、さらには来月配本予定の『歴史認識はどう語られてきたか』(千倉書房、2020年)は、その分野の著作になっている。

 とりわけ『歴史認識はどう語られて来たか』では、日本人の韓国に対する歴史認識問題の形成過程のみならず、韓国人側の認識、そして日韓のさらに外側にある国際社会の認識がどのように形成されて来たかを細かく分析してあるので、そこに筆者自身のバイアスをも客観的に読み取り、さらに読者自身のバイアスをも認識して欲しい。そうした時、その読者ははじめて自身の認識を離れて、韓国の何かしらを「わかる」ことになるのかも知れない。

そんな「アクティブな読書」を期待したい。

編集部注:池上彰氏の肩書を修正しました。

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