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「生活と結びついた言葉で語る沖縄の現実」 上間陽子『裸足で逃げる』『海をあげる』編集者インタビュー/上

記事:筑摩書房

初めての印象は「すごいものを聞いた」

 上間さんと初めてお会いしたのは、前の職場で「atプラス」という雑誌をやっていたときです。岸政彦さんに責任編集をお願いして、生活史の特集号をつくったんですね。寄稿いただく方たちとの顔合わせも兼ねて大阪で研究会をしたんですが、そのときに上間さんは完成原稿に近いものを持ってきました。「キャバ嬢になること」っていう、『裸足で逃げる』の頭の原稿です。いま思うとそれに打たれたような気がします。

――文章の力に圧倒されたんでしょうか

 最初は耳だったんですよね。上間さんがその原稿を朗読されて。ひとをいたわるような声というか、とってもいい声で。「すごいものを聞いた」と思いました。『裸足で逃げる』も『海をあげる』も、「聞く」というのがすごく大事なモチーフだと思います。僕の最初の印象も「聞いた、聞いてしまった」というものでした。

 語りをなるべくそのままのかたちで使う聞き書きや生活史のスタイルは、柳田國男からアレクシエーヴィチまで、これまでの出版にもひとつのジャンルとしてありました。上間さんの魅力は、なんだろう…。地の文もいいし、やりとりもいいし。読んだことないなって思いました。それまで「atプラス」で扱っていたのは、資本主義の問題とかもうすこし大きなテーマだったのもあって、上間さんの原稿は新鮮だったんです。岸さんが、その入り口を開いてくれました。

「風俗のルポと何が違うの」という世間のイメージ

 夜の街で働く女性たちの話って、サブカル的と言えばいいのか、書店では「貧困ポルノ」みたいなジャンルが多かった。パっとイメージされるのが「お金のない女の人が風俗で働いていてかわいそうだ」って消費する男性の像です。逆に、「こんなにたくましく生きてるよ」とか、あるいは、「自分よりも下がある」と安心するための材料として読んだり。社内で企画を通すときも「こういう話はたくさんあるけど、風俗のルポと何が違うの」と聞かれたりして、はらわた煮えくりかえるわけですけど、そこはちゃんとクリアにしないといけないと思っていました。

 あと、会話のやりとりをそのまま掲載するのって、ノンフィクションだと禁じ手に近いと思います。聞いたことをどう一文に圧縮するかがジャーナリストやノンフィクション作家の腕の見せどころで、『裸足で逃げる』はそれをやっていないというか、逆なんです。悪く言えば、一見して冗長に思える。本当は、ああいうふうに生活史を書くことには相当の技術が必要だと思いますが。ノンフィクションなのか生活史(社会学)なのか、どっちつかずだという指摘もありました。実際、書店の棚でも両方に並んでいましたし。

「どうすれば届くんだろう」と「お前らなんか知らん」のあいだで揺れ動く

 タイトルも最後まで悩みに悩みました。企画提出時の仮タイトルは「キャバ嬢になること」だったんですが、そのままだと分析的な感じがするというか。そうではなくて、現在進行形の話だということを表したかったんです。

 「裸足で逃げる」という言葉は、あとがきで上間さんが書かれているエピソードからです。58号線という沖縄の背骨みたいな国道の脇に米軍の基地があって、その横を女性が一人で「裸足で逃げる」。上間さんのなかにもその表現はタイトル案としてあったそうです。

 実はタイトルにはもう一案あって、「くるされる街」っていう。「くるす」っていうのは沖縄の言葉で「ぶんなぐる」っていう意味で、これは暴力の本だなとも思っていたので。デザイナーの鈴木成一さんに両案でカバーデザインをつくってもらって、僕は「くるされる街」推しだったんですが、上間さんはしっくりこない。最後、けっこうギリギリで「裸足で逃げる」になりました。結果的には、『裸足で逃げる』にして本当に良かった(笑)。

――当時、こういうひとに読んでほしい、というイメージはありましたか?

 上間さんが調査している女性たちに原稿を朗読していたので、そういった「読み合わせ」のイメージはありました。上間さんは、調査者を描くときに調査者が使わない言葉は使わない。たとえばこの本だと「貧困」って言葉は一回も出てこない。それは「貧困」という言葉について、本に出てくる女性たちが自分のことを指しているように思えないと言ったからです。その姿勢は『海をあげる』にも共通していると思います。自分にしっくりくる言葉で書いてあるってとても大事で、上間さんの文章の魅力はそういうところにあるのかもしれません。

 正直に言うと、いわゆる「貧困ポルノ」を消費している男たちに、ガツンとやりたかった。だから、こういうことがなくならないんだぞっていう怒りはあって。いまもずっと怒っていますけど。でも、そういうひとはおそらく『裸足で逃げる』を読まない。本をつくるときにはいつも、「どうすれば届くんだろう」と「お前らなんか知らん」のあいだで揺れ動いています。

上間さんが見ている現実を「見てしまった」

 男性に比べると、女性からの反響が大きかったんです。こんなことが起きているなんて知らなかったと。もちろん僕もこの本をつくるまで知らなかった。だから、上間さんが見ている現実を「見てしまった」感覚があって。それがたまたま沖縄だったのかもしれなくて、上間さんの本に格別の思い入れがあるのはそういう事情もあります。

――『海をあげる』を読んだときも、「見てしまった」という感覚になりました

 それはとってもうれしいです。波に巻き込まれるというか。見てしまったら、もう見て見ぬふりはできないですよね。上間さんは調査の領分を超えて介入・支援していますが、それを「寄り添う」と美談にしたがるひとが多くて、それはちょっとちがうと思うんです。付かず離れずで隣にいるというか、もっとドライに見えます。カピカピではなくて、干し柿くらい水分のあるドライさですが(笑)。『海をあげる』の最後に調査記録がついていますが、七海さんと会っている回数が尋常じゃない。

――上間さんも「見てしまった」ということでしょうか?

 それはわからないです。すくなくとも調査をはじめたきっかけは、2010年の女子中学生が集団レイプされた事件だと聞いています。調査を開始されるかは散々悩んだとおっしゃっていました。

これまでにない、新しい語り方

――『裸足で逃げる』では女性たちの声を聞き取って社会学の手法で本にした一方、最新刊の『海をあげる』では、今度は自分の声を聞き取るようにして書かれたエッセイとしてまとめられています。まったく別の方法で、沖縄の問題について伝えていますよね。

 3年半のあいだに僕の所属が太田出版から筑摩書房に移って、そのかんも上間さんとはコンタクトをとっていました。お願いしたのは、沖縄の定点観測です。というのも、僕は全然沖縄のことを知らない。沖縄についてはほとんど基地問題か観光地っていう語られ方しかされなくて、正直本土での報道が少ないことにも、いつも同じようにしか語られないことにもうんざりしていました。実際に住んでいるひとの息遣いが聞こえてくるような話が読みたかった。

 最初に「アリエルの王国」の原稿をいただいたときに、「こういうものが読みたかった」と思いました。辺野古に土砂が投入された日の話です。報道ではほとんど目にしたことのない、生活と結びついた辺野古が書いてある。同時に、女性や子どもの視線でとらえた沖縄でもある。これまでにない新しい語り方だという直感がありました。

 「アリエルの王国」のあとに、上間さんがこういうのも書けそう、こういうのも書けそうって本の構成案を送ってきてくれました。「書く気満々だ!」って(笑)。ずっと書けない期間があったそうなんですが、「アリエルの王国」をきっかけに蓋があいたんだと思います。

※12月9日公開の後編では、『海をあげる』がエッセイで書かれた意味、「海をあげる」というタイトルの理由、そして「話す言葉をもたない人の話を聞くこと」についてお話しいただきます。

聞き手/濱中祐美子(筑摩書房 宣伝課)

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