沖縄の分断に玉城デニーはどう挑むか? メディア地図からその構造を解き明かす 『沖縄報道』より
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
2017年の流行語大賞は「忖度」だった。森友・加計学園問題における政府意向を忖度した各省庁の怪しげな動きをさしたものと思われるが、少なくとも表現活動分野において、こうした「上」をみての態度は12年ころから見え隠れするようになり、14年から顕著な傾向として社会的ニュースになってきた。たとえば、美術館における作品撤去要請や、音楽イベントに対する政治的テーマ排除の要請、地方自治体の憲法テーマの集会等に対する後援返上などの動きである。
そうした大きな流れのなかで、新聞やテレビもまた、「忖度」報道と呼びうる状況が現出してきている。たとえばその典型例が、沖縄駐留米軍をめぐる言葉の遣い方である。16年12月13日の名護市安部で起きたオスプレイ機事故に関する報道では、次ページに示す通り放送番組や新聞紙面において、事故を表す用語に大きな違いが見られた。その違いは、あえて単純化すれば、〈沖縄と東京〉〈政府寄りと沖縄寄り〉の二つの要素のかけあわせで分かれているともいえよう。
表記は大きく、①不時着、②大破、③墜落、に分かれた。
注1:2017年9月11日付では「オスプレイ不時着 大破事故」と表記
注2:NHK沖縄は②(大破した事故)
注3:報道ステーションは②
注4:報道特集は③(墜落事故)、NEWS23は②&③
注5:事故当初は防衛省発表を受け、「不時着事故」と報じたものあり
ちなみに、沖縄メディアが「あえて」大げさに表現しているのかといえば、そうではなかろう。その傍証となるのが二つの紙面である。一つは、同事故を米軍準機関紙である「星条旗新聞(Stars and Stripes)」自体が、「CRASH(墜落)」と表記していることが挙げられる(その後に公表された米軍調査報告書でも、搭乗員が制御不能の救難信号「メーデー」を発信したとの記載がある)。もう一つが、すぐ後に同じ沖縄県内(しかも同じ沖縄北部地区)で起きた、運航不能となり民間地に落ちた米軍ヘリ事故においては、沖縄メディアも「墜落」は使用せずに紙面化していることだ。
政府発表によれば、「パイロットが最後まで操縦を制御できていた」し、産経新聞では「残骸は一カ所に固まっている」ので不時着であると解説するが、もし同様の民間機の事故が本土で起きた場合、どのような報道をするか想像すれば、明らかに「大破事故」であり、おそらく「墜落」とするのが、もっともわかりやすい報じ方であろう。少なくとも、「不時着」や「不時着水」なる用語は使用しないと思われる。それは読者・視聴者に違和感を与えるからだ。
また通常、公的機関の発表した用語を新聞やテレビは必ずしもそのまま使用はしていない。福島原発事故後によく見聞きする「汚染水」も、当初、東京電力や所管官庁(原子力安全・保安院、現在の原子力規制委員会)の発表用語は、「低濃度放射性廃液」とか「高濃度の放射性物質を含む水」などと表現されていた。メディアが、「わかりやすさ」を優先して言い換えている一例だ。あるいは逮捕された犯人と目される人物の呼称も、いまは「容疑者」が一般的だが、これも警察発表は被疑者であり、裁判が始まれば被告人が正式な法律用語だ。容疑者はメディアが作った造語である。こうして、読者・視聴者に分かりやすい用語が使用されるのが常なのである。
ここからわかるのは、12月の安部における米軍ヘリ事故において、各メディアが三つの異なった表記を使用するにあたっては、「熟慮」の結果、あえて異なる表記で報じているということだ。単に沖縄あるいは基地問題に対する無関心や無理解から、表記が分かれているのではなく、政府あるいは米軍に対する「思いやり」や、あるいは彼らの強い意思が働いている結果といえるだろう。
ちょうど当時の政治状況を考えれば、オスプレイに関しては沖縄県内で普天間への配備に強い反対の声があった。また、まだ十分に顕在化していないものの、地元ではすでに配備されたオスプレイに対する騒音問題で、宜野座や高江では無視しえない状況が続いており、さらに安全面でも問題が生じれば、現在進行形の運用にも影響を与えかねない状況であった。
そして何よりも、日本は米国より大量のオスプレイの購入を約束している立場でもあり(2017年現在、陸上自衛隊に17機=3600億円の予定で、さらに増額の可能性もある)、これらは、本土・佐賀空港へ配備予定だ。そのためには、その安全性に疑問符が付くようなことは絶対に避けなければならない。
こうした報道こそが、まさに「忖度」ではないか、と言われる所以なのである。
では、こうした忖度は、いつからどのような形で始まっているのか。ある日突然に生まれるものではないことはいうまでもないが、その大きな流れは二一世紀に入ってからとみてとれる。
2006年に発足した第一次政権以降、安倍内閣の特徴の一つは、表現の自由に対して制約的であることだ。この間、わざわざ表現の自由や取材・報道の自由に「配慮」や「留意」することを明文化せざるをえない法律が制定されたほか、情報公開法・公文書管理法の解釈変更により、知る権利の空洞化が進んだ。実は、こうした断り書きがついた法律は四つあるが、そのいずれもがこの内閣と深い関係にある。
第一次安倍政権のときの憲法改正手続法(日本国憲法の改正手続に関する法律)では、「この節及び次節の規定(国民投票運動と罰則の規定をさす=筆者注)の適用に当たっては、表現の自由、学問の自由及び政治活動の自由その他の日本国憲法の保障する国民の自由と権利を不当に侵害しないように留意しなければならない」(一〇〇条)としている。
続いて第二次安倍政権のときに強行成立した特定秘密保護法(特定秘密の保護に関する法律)では、「この法律の適用に当たっては、これを拡張して解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならず、国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない」(二二条一項)と定める。
さらに安倍政権時に集団的自衛権の行使に伴い大きく拡充された安保関連法のなかにも同様の規定がある。第一次安倍政権の前の小泉政権時に成立した武力攻撃事態対処法とともにできた国民保護法(武力攻撃事態等における国民保護のための措置に関する法律)では、「国及び地方公共団体は、放送事業者である指定公共機関及び指定地方公共機関が実施する国民の保護のための措置については、その言論その他表現の自由に特に配慮しなければならない」(七条二項)となっている。
そして、第三次安倍政権でできたのが「共謀罪」法(日本の組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律)である。「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団による実行準備行為を伴う重大犯罪遂行の計画」(六条の二)について、「取調べその他の捜査を行うに当たっては、その適正の確保に十分に配慮しなければならない」(同条四項後段)としている。これは、内心の自由に踏み込む恐れがあるから、「配慮」をいっているとされている。
つまり、侵害する危険を十分承知しているからこそ、わざわざこうした規定(条文)を入れざるをえなかったということになる。まさに裏表の関係で、いかに言論・表現活動に関し制約的な法律をつくり続けているかということがわかるだろう。
この「配慮」について、二つのことがいえる。一つは、そもそも憲法に保障されていることをなぜあえていうのか、という点だ。やはりその法律に自由を侵す危険性があるということの証左であろう。もう一つは、単に「配慮」するとだけいっているのではないことに注意が必要である。秘密保護法に端的に示されているが、続く二項では、「取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法令違反または著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とする」と規定されている。
これはまさに、クロ(違法)でなくてもグレー(不当)であれば捕まえるということである。しかも、「公益」が規定されているわけではないし、「不当な方法」も現場の判断だったり、裁判官の心証であったりする。警察官や裁判官が社会通念に基づいて判断することが、恣意的な判断になるのではないか、との問題が当然生じることになるわけだ。