「痛みを表現できない人の声を聞く」 上間陽子『裸足で逃げる』『海をあげる』編集者インタビュー/下
記事:筑摩書房
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『海をあげる』は、上間さんが20年前にごはんを食べられなくなった話から始まります。定石どおり、つかみになる原稿を冒頭に持ってきた。時系列からしても、いちばん昔の話をしています。そのあと、水の汚染だったり住民投票だったり、具体的に、日常がこうやっておびやかされているという話がなされる。
沖縄での生活も24時間深刻なわけじゃなくて、子どもとの時間もあるし、ごはんをつくったり、保育園の卒園式で泣いたり、母親に佐野洋子の本をプレゼントしたり、いろんな時間がある。どこにでもあるような風景なんですが、でも、そこには沖縄の抱えてる問題が影を落としています。
――沖縄のことを伝えるというのが大きな意義としてあると同時に、本の紹介で「沖縄」という言葉を全面には使わないようにもしていますよね。
そもそも沖縄を書いていることをどう打ち出すか悩む時点でちょっとおかしいという気持ちもありました。東京の話だったら悩まないですよね。メディアの、「東京=日本」という考え方もあるかもしれません。沖縄は、日本の問題が凝縮された場です。でも、そういう不都合はみんな見たくない。だから、前面に出すのはためらった、という側面はあったかもしれません。
これは刊行後、府中に住む友人から教えてもらったことですが、上間さんが「きれいな水」で書いていたのと同じように、多摩地区の水道水もPFOS(有機フッ素化合物)による汚染があるそうです。横田基地が汚染源との報道もありました。原因が特定されているわけではないようですが、これひとつとっても、「沖縄の話」と片づけるのは難しいことがわかると思います。
――「海をあげる」というタイトルは連載時から変わっていませんが、単行本に書き下ろされた最後の一篇でその意味が明かされます。その構成は最初から決まっていたんですか?
構成は原稿がそろってから、何度か相談して決めました。「アリエルの王国」が中心となるエッセイで、それをどこに置くかが難しかった。それが決まると、スッと残りも決まった感じです。原稿の掲載順が連載時とちがうことに気づいてくださる方も多くて、工夫したところをきちんと拾ってもらえるのはありがたいです。
最初は構成を考えるほど原稿もなかったので、何も決まっていなかった。上間さんから連載のタイトルとして「「海をあげるよ」でどうですか」ってきて、「よ とりましょうか」くらいの(笑)。『海をあげるよ』という絵本が元になっていますが、その内容がどう本とつながるかも明確ではなかった。ただ、「海をあげる」というタイトルの原稿は一本書いてもらおうとは決めていました。表題作があったほうがいいと思うので。
正直、「海をあげる」の意味は、突き詰めるとよくわからない。「返して」ではないんですよね。捨て鉢というかキレてるというか。僕は、「あげる」という捨て台詞、あるいは「あげる」と言いながらじっとにらみつけてくるようなイメージでとらえています。ただ、「海をあげる」で終わると強すぎるかもしれないと思って、あとがきを書いてくださいとはお願いしました。素晴らしいあとがきでした。校閲のひとに読んでもらったら涙を流していて、それもうれしかった。
この本は読んだあとで、読者のなかに「海をあげる」っていう表現が重しとして残ってしまうだろうと思っています。だから、感想を言語化するのが難しいかもしれません。ある書店のポップには、「簡単にはおすすめできないけど、読んでほしい」と書いてあって(笑)。ちょっと弱りました。でも、誠実であろうとすれば、そういう持って回った言い方になるかもしれない。素敵な装丁なので、信頼できる友人へのクリスマスプレゼントとしてお求めいただくといいのでは、と思っています。
――「海」ってそもそもなんだろうと思いました。“sea”だけじゃないよね、とか。
そうですよね、ちょっと文学的というか。おそらくは、壊される海をみる絶望なんだと思います。でも、こういう言い方しかできない、そういう必然性があって採用された表現だと思います。「海をあげる」の最後の3行は、急に刃物を突きつけられるような、ものすごい迫力がありますよね。最初に原稿をいただいたときは呆然としてしまって、仕事が手につかなかった。
そもそもエッセイなのか、と言っている方もいて、それはたしかにそうなんです。記録文学と言ってもいいし、私小説と言おうと思えば言えるかもしれない。ただ、それはエッセイという言葉にいまはふんわりした、日常をちょっとちがう目で捉えて洒脱に書くという軽やかなイメージがあるせいだとも思います。それを逆手にとって、びっくりさせてやろうといういたずら心もありました。
本のメッセージは明快ですよね。止めてほしい。助けてほしい。沖縄のことをもっと考えてほしい。どういうふうに書けば、聞いてもらえるのか。たとえば日米地位協定については、良い本がたくさん出ています。そういう本を読まれる方は、おそらく沖縄の問題についても日々考えている。だから、そうした難しい言葉に耳を塞いでしまうようなひとたちに届くようにしたかった。
上間さんの文章には、ひとを惹きつけるものがあります。なんてことない言葉しか使われていないのに、「ごはん」という言葉ひとつとっても、じっと見てると泣きそうになってくる。おそらくこれは、言い方の問題なんです。たとえば「食べものをうまく食べられない」を「摂食障害」とは言わない。ここはすごく大切なところだと思っていて、具体的にしっくりくる言葉でしか上間さんは書いてない。盛らないというか、実際の生活で使っている言葉で書いている。だから、胸に迫ってくる。
この本では、沖縄の問題を直接的にはあんまり書いてないんですよね。時にはとても美しい情景が目に浮かびますし、子どもの姿にじーんと来たりする。今帰仁の描写は、実際に風が吹いている感じがします。でも、確実に米軍の影はちらついている。やはり政治の話をしているんだと思います。
「個人的なことは政治的なことである」というスローガンがありますが、政治の本来の役割は、政治を意識しないで暮らせるようにすることだと思います。たまに選挙に行けば、それでいい社会。美味しいものを食べるとか、洗濯するとか、動物園に行くとか、もっと大事なことが生活にはあるわけですから。夢のまた夢、みたいな話ですが。
いまは逆で、「政治的なことは個人的である」になっているのかなと思ったりもするんです。だから、「これは沖縄の問題だよね」という言い方が出てくる。だけど、そのギャップを想像力で補うにも限界がある。もっと具体的に、こういうひとがこういうふうに暮らしているんだ、こういうことで苦労しているんだと伝えていくことが必要だと思っています。
今回の帯コピーは散々悩んだんですが、社内のひとの意見も参考にしつつ、最終的には「聞く」をモチーフにしました。いま、「言えない」ことやそれを「聞けてない」ことがとても深刻だと思っているからです。政治家も、メディアも、だれもひとの話を聞いてない。みんな携帯いじくっている。
七海さんが道案内するシーン(「何も響かない」)がありますが、往々にして、上間さんが会っている女性たちには自分の思っていることを言えないことがあるそうなんです。つまり、欲望できない。家庭環境の厳しさとかから、それができない。
ちょっとだけかっこつけると、編集しながら、上間さんがどこかで引用されていたシモーヌ・ヴェイユの「神への愛と不幸」という原稿の一節はずっと意識していました。「半分つぶされた虫のように 地面の上をのたうちまわるような打撃をうけた人々には 自分の身に起ったことを表現する言葉がない」。上間さんは「自分の身に起ったことを表現する言葉がない」ひとたちの声を聞いてるひとなんです。
上間さんが聞きとったものを読むと、「(言葉が)ある!」っていつも驚く。「声なき声」のような言い方でロマン化する必要もなくて、聞きとれば、言葉はあるんです。だからきっと、根本的に、多くのひとがちゃんと話を聞けてない。上間さんが100人いれば、世の中ちょっとはましかもしれないけど(笑)。上間さんだけに任せるのも間違っているし、大きな荷物を、ほんのすこしかもしれないけど、一緒に背負いたいと思っています。
聞き手/濱中祐美子(筑摩書房 宣伝課)