140年前に芽吹いた自由と権利の夢 あきる野市中央図書館「五日市憲法草案と自由民権関係資料」
記事:じんぶん堂企画室
記事:じんぶん堂企画室
1968(昭和43)年、東京都五日市町(現・あきる野市)で、旧家の土蔵に眠っていたおびただしい古文書の山から、とんでもないものが見つかった。
明治憲法公布に先立ち、全国各地で100近く作られた憲法の私案(私擬憲法)の一つで、今では教科書にも載る「五日市憲法草案」と呼ばれるものだ。
発見したのは、東京経済大学の色川大吉教授(現・名誉教授)らとゼミの学生たち。この旧家、深澤家は江戸時代から多くの山林を持つ五日市の豪農で、屋敷跡に残っていた土蔵は、「開かずの土蔵」とも言われていた。
そこに着目したのが、多摩の自由民権運動を調査していた色川教授だった。深澤家は明治10年代、その中心的存在だったことがわかっていたため、膨大な資料が残っていると期待された。実際、土蔵からは古文書や書籍など約1万点が次々と発見された。
その中に埋もれていたのが、A4サイズほどの薄い和紙24枚に毛筆でしたためられた文書で、タイトルには「日本帝国憲法」とあった。
「最初は大日本帝国憲法を書き写したものではないかと思われたそうですが、読んでいくにつれ、どうも違うということに気づいたそうです」
そう話すのは、あきる野市中央図書館の地域資料担当、宮崎慶正(よしまさ)さんだ。現在、あきる野市中央図書館では、五日市憲法草案をはじめとする深澤家の古文書の寄託を受け、管理しているほか、自由民権運動に関する資料も収集しており、特徴的なコレクションとなっている。
土蔵から出てきた謎の「日本帝国憲法」は、204条から構成されていたが、見るものを驚かせたのが、国民の権利について多くの条文が割かれていたことだった。特に、45条は象徴的で、「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ」とあった。
あきる野市中央図書館の職員による現代語訳をひもとくと、「日本国民は、一人ひとりの権利と自由を達成しなければならない。それを他の者が妨害してはならない。かつ国の法律はこれを保護しなければならない」という意味となる。
「他にも、外国人でも国内に居住している人は、生命・身体・財産を保護されたり、『政治犯であることによって、死刑を宣告されることがあってはならない』など、書いてあります。全体的に、国民の権利を守るべきものとして、学問の自由や移動の自由などにも触れています。また、子どもの初等教育は親の責任と言い切っています」
現在の日本国憲法となんら遜色ない条文である。これが書かれたのが明治14(1881)年。十数年前までは封建社会である江戸時代であり、近代憲法といわれる大日本帝国憲法より先につくられたことに驚く。
「残念なことに、あまりに現在の憲法に近いため、そのすごさが伝わりづらいんです」と宮崎さんは笑う。「五日市憲法草案は日本国憲法がつくられる時に、参考にされたものですよね」とまで言われるそうだ。「発見されたのは1968年なので、現在の憲法とは何も関係ないのですが…」
では、この「日本帝国憲法」はどのように生まれたのだろうか。深澤家の文書群の研究が進み、少しずつその「生い立ち」が明らかとなっている。
まず、この憲法の冒頭に「千葉卓三郎草」とある。千葉卓三郎(1852〜1883)は宮城県の武士の家に生まれたが、戊辰戦争に敗北したのちは、各地で学習遍歴を重ね、明治14(1881)年、五日市で学校長となった。博覧強記といった人物で、中国古典籍からロシア学、医学、儒学など、あらゆる学問に精通していた。
もともと、五日市の豪農たちは東京などに商売で行き来していたので、進取の気風がある地域だった。明治10年代に自由民権運動が盛り上がり、各地で運動を担う「結社」が生まれた際も、五日市には「五日市学芸講談会」などのグループが誕生していた。
その中心となったのが、あの土蔵が残っていた深澤家である。青年期を五日市で過ごした小田急電鉄創始者、利光鶴松(1864〜1945)の自伝によると、深澤家の蔵書で勉強したと記されている。東京で新しい本が刊行されるとすぐに購入しては持ち帰り、「結社」のメンバーや青年たちに読ませていたようだ。
そんな博学多識な千葉卓三郎と、深澤家の若き当主であった深澤権八(1861〜1890)の2人を主軸に、「五日市学芸講談会」のメンバーが深澤家の蔵書で各国の法律や政治を学んだり、他の地域で作成された憲法私擬案を入手したりして、自分たちの憲法草案を練り上げていったという。
この憲法草案が、「千葉卓三郎草案」でも、タイトル通り「日本帝国憲法」でもなく、「五日市憲法草案」と名付けられたゆえんだ。
しかし、千葉卓三郎は五日市憲法をまとめて間もなく、結核のために31歳の若さで亡くなる。盟友を追うように、7年後には深澤権八も29歳で夭折した。
一方、五日市憲法草案はどうなったか。もともと、私擬憲法草案が活発につくられた背景には、1880(明治13)年、国会開設運動をしていた団体「国会期成同盟」が各地の結社で憲法草案を作成し、持参研究することを決議したのが発端だった。
ところが、国会の開設と欽定憲法を定めることが表明されると、「持参研究」は実現することなく終わり、同時に私擬憲法の作成は禁止され、自由民権運動も徐々にしぼんでいった。
「結局、五日市憲法草案は公表されず、地元の人たちにも知られることはありませんでした」という宮崎さん。「結社に参加していた一人は、『他の人に迷惑がかかるから、自分が死んだら手紙類は全部燃やすように』と遺言していたようです」
そして、五日市憲法草案は「開かずの土蔵」で眠りにつくことになった。
五日市憲法草案は、あきる野市中央図書館が毎秋に開催する企画展で、原資料の一部が公開されている。
あきる野市中央図書館には、五日市地区(現・あきる野市)における自由民権運動の活動がどのようなものだったのかを伝える「深澤家文書」の原本が寄託されている。五日市憲法草案などの一部を「あきる野市デジタルアーカイブ」によって公式サイトで公開しているほか、マイクロフィルム化して収蔵している。
市内にある五日市図書館と合わせて、自由民権運動に関する資料約1000点も収集。1884(明治17)年、政府の悪政に対して、埼玉県秩父郡の農民が武装蜂起した「秩父事件」などの資料も収蔵している。
宮崎さんは、「憲法という名前だけで、ちょっと敬遠してしまう方もいらっしゃるので、五日市憲法草案が生まれてきた歴史や文化の面白さを少しでも伝えていきたいです」と話している。