日本と平和を愛したドナルド・キーンさんの気軽な「書斎」 東京都北区立中央図書館に蔵書コレクション
記事:じんぶん堂企画室
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大正時代に建築されたという赤レンガ倉庫。歴史を感じさせるこの建物は現在、東京都北区立中央図書館の一部に利用されている。図書館は北区十条台1丁目にある公園の敷地内にあり、芝生のグリーンに赤レンガがよく映える。
この佇まいを気に入っていたのが、アメリカ生まれの日本文学研究者、ドナルド・キーンさん(1922〜2019)だ。キーンさんは1974年に北区・西ケ原に居を構え、毎年数カ月間を過ごしてきた。
キーンさんは晩年、日本に永住するにあたり、北区立中央図書館に蔵書の一部を寄贈。現在は、「ドナルド・キーン・コレクション」として、図書館の一角にコーナーが設けられている。
「閉架書庫にしまい込むのではなく、誰でも手にとって読めるように」というキーンさんの思いから、コレクションは開架で一般公開。キーンさん自身も生前、図書館を訪れて、コレクションの本を利用していたという。
日本とその文化を愛したキーンさんの息吹が感じられる北区立中央図書館を訪ねた。
キーンさんは1922年、ニューヨークに生まれた。自伝『私と20世紀のクロニクル』(中央公論新社)によると、子どもの頃から成績優秀で、飛び級を何度か繰り返し、1938年に16歳でコロンビア大学に進学したという。
入学して語学の勉強を始めたが、まもなくヨーロッパで戦争が勃発する。やがて1940年、「私の生涯で最も陰鬱な年にドイツ陸軍が突如進撃を開始した」(前掲書)と述懐するとおり、ナチスドイツによるヨーロッパの国々への侵攻は本格化していった。
戦争の記事を読みたくないあまり、キーンさんはますます外国語を学ぶことに没頭していく。そんな折、キーンさんにとって「救いの手」が差し伸べられた。『源氏物語』との出会いである。
タイムズ・スクエアの本屋で、山積みされていた『The Tale of Genji』という本を見つけた。アーサー・ウェイリー訳で、2巻セット49セント。お買い得だと思ったキーンさんは購入して帰った。
そうして読み始めた『源氏物語』に、キーンさんはすっかりこころを奪われる。どこか遠くの美しい世界が描かれ、そこには戦争がなかった。
この時の出会いは、のちのキーンさんの人生を日本文学研究へと導くことになる。
長年、ニューヨークと日本を行き来してきたキーンさんが東京都北区に住まいを得たのは、偶然だった。キーンさんが晩年、東京新聞に連載していた日記をまとめた『ドナルド・キーンの東京下町日記』(東京新聞出版局)によると、最初は東京都文京区にマンションを購入したものの、騒音がひどかった。
そんな時、友人と歩いたのが、大正時代の財閥の邸宅だった旧古河庭園。キーンさんは、「緑豊かで、とにかく静か。バラが美しく、池には白鳥が見えた。そこに住みたいと、無邪気に思ってしまった」(前掲書)といたく気に入り、その近くに転居したという。
キーンさんが蔵書を北区立中央図書館に寄贈したきっかけは、2010年10月に開かれた国民読書年を記念した講演会だった。このとき、キーンさんは初めて赤レンガの図書館に来館した。
「この赤レンガ倉庫は1919年に建築され、2008年に新しい中央図書館の一部として保存整備されました。普通であれば古い建物を壊して新しい建物を建てることが多い中、古いものをそのまま活かしているということで、キーン先生がとても気に入ってくださいました」
そう説明するのは、北区立中央図書館の図書係長、松元宙子(まつもと・ひろこ)さん。コレクションの受け入れに携わってきた一人だ。
その後、キーンさんは日本への永住を決意して、ニューヨークの蔵書を整理し、地元の図書館である北区立中央図書館に一部を寄贈したという。図書は788冊で、このうち和書が490冊、洋書298冊。2013年1月に開設されたコレクションのコーナーに並んでいる。
「ここの本は、キーン先生が『北区の皆さんに読んでもらいたい』とおっしゃって、ニューヨークの書斎からご自身が選んでくださったものです。もちろん、ニューヨークの蔵書には専門書や洋書も多かったのですが、区民の方達が親しみやすく、読みやすいようにと、一般向けの和書を多めに選んでくださいました」
コーナーは、背の高い書架に囲まれた小部屋のようにしつらえられていた。キーンさんの書斎をイメージしているという。和書の棚には、キーンさんの代表作である『明治天皇』(新潮社)を執筆する際に利用した『明治天皇紀』(宮内庁)など参考文献のほか、近松門左衛門など日本文学や古典文学に関する資料などが含まれている。
多くの本には英語や日本語の書き込みがされており、そうした本には背表紙に赤いシールが貼られ、一目でわかるようになっている。本を開いてみれば、キーンさんが丹念にページを繰って読んでいた姿が想像できた。
また、洋書の棚には、キーンさんと交流のあった安部公房や大江健三郎、三島由紀夫ら作家の英訳本や、自著の英訳本が並んでいた。その中には、日本文学との出会いのきっかけとなった『The Tale of Genji』もあった(コレクションの資料は、キーンさんの友人でもあったエドワード・ジョージ・サイデンステッカーの英訳本)。
「この本は、キーン先生が飛行機に持ち込んで読んでいらしたのですが、うっかりコーヒーをこぼしてしまったそうです。ページにその跡が残っています」
キーンさんはこれらの本を寄贈する際に、「たくさんの書き込みがある本を見て楽しんでくれる人がいたら嬉しく思います」とメッセージを寄せている。
蔵書を受け入れにあたり、ニューヨークの自宅を訪れたことがあるという松元さん。「世界的な文学者であるキーン先生に初めてお会いするということで、とても緊張しました」と振り返る。
しかし、キーンさんは北区の担当職員たちを温かく迎えいれてくれた。
「図書館としては、こういうコーナーをつくっていきたいとご説明したところ、キーン先生はとても熱心に耳を傾けてくださいました。物腰が柔らかく、優しい方でしたが、その一言一言にはとても深みがありました」
その後、図書館にコーナーが開設されるとキーンさんはとても喜び、「散歩の途中で赤レンガ図書館に寄り、懐かしい本に再会することを楽しみにしています」と語っている。実際、キーンさんが2019年に逝去するまで、しばしばこのコレクションの本を執筆の参考に利用していたという。
コレクションの資料は貸出や複写はできないが、閲覧席で読むことは可能だ。国内外から、キーンさんのファンが訪れている。
北区では現在、キーンさんの足跡や功績を伝えていくため、「ドナルド・キーン・プロジェクト」を立ち上げている。その一貫として、昨年11月から12月にかけては、一般財団法人「ドナルド・キーン記念財団」と共催で、三島由紀夫との交流に焦点をあてた企画展を開いた。今後も、キーンさんにまつわる展示を企画していく予定だ。
「それから、北区では子どもたちに向けて、北区とゆかりのある偉人についての副読本をつくる計画があり、キーン先生についてもご紹介する予定です。キーン先生は平和をとても大切に思っていらっしゃいました。その思いを子どもたちに伝えることは、とても有意義だと思います」