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不適切な養育が発達に影響する 神経システムから「生きづらさ」「人とのつながり」を考える

記事:春秋社

豊かなのに生きづらい社会

 日本は、不均衡はあるにしても、概ね平和で豊かな国であると考えられている。しかし、人々の格差は広がる一方で、引きこもりが100万人を超えたという報告もある。豊かな社会であるはずなのに、そこに暮らす人々はみながみな幸せであるとはいえない状況におかれているようだ。その背景には、人々の抱える生きづらさの問題が根深く巣食っているように思える。

 私は、トラウマ・セラピストとして、発達性トラウマを抱える人たちの支援に当たってきた。発達性トラウマとは、受胎から成長期にかけて、さまざまな理由で受けるトラウマであり、愛着の形成不全はその最たるものである。

 おしなべてクライアントは知性的で、まじめで、頑張り屋だ。しかし、重圧に耐えきれずに心が折れてしまうことも多い人たちだ。彼らは、遠慮がちで、自己主張が苦手で、他者に過剰に配慮し、自罰的である。その一方で、時に周囲が驚くような爆発を起こす。さまざまな疾病を抱えていることも多く、自分の身体一つを置いておく場所もないかのごとく、生きることに居心地の悪さを感じている。

科学で捉える「生きづらさ」

 ポリヴェーガル理論は、彼らの生きづらさに科学の光を当ててくれた。今までは、「ネクラ」「メンタルが弱い」「過敏」などと、個人の性格的な問題だと捉えられてきたことが、実は自律神経系の調整不全であったという明快な説明がなされたことは、彼らにとっては大きな救いとなり希望となった。それも、受胎から成長期にかけて、健全な神経系の発達を遂げられなかったときに、こうした生きづらさが生まれてくることがわかってきた。

 赤ちゃんは生まれたときは進化上最も古い迷走神経である背側迷走神経複合体と、交感神経系を備えている。進化上新しい迷走神経である腹側迷走神経複合体も育ち始めているが、まだ未熟な状態だ。前回の記事でも論じたが、「背側迷走神経複合体」は消化吸収を司り、生命の危機に瀕すると「凍りつき」を起こす。「交感神経系」は、身体が動くことを可能にするもので、危険を感じると「闘争・逃走反応」を選択して状況に対応しようとする。「腹側迷走神経複合体」は、他人と適切につながって自他を癒し、愛し合い、実り多い人生を生きるために働く神経枝といわれ、専門的には「社会交流」を司っているとされる。

 この「人とつながるための迷走神経」は、親などの養育者から温かいまなざしや韻律に満ちた声をかけてもらうことで、徐々に発達していく。また、適度な興奮と落ち着きの反応を引き出す「いないいないばあ」や、「たかいたかい」といった社会的な交流を刺激する「あそび」をしてもらうことで、人とうまくやっていくために大活躍する迷走神経(腹側迷走神経複合体)が育っていく。

 もし大切な成長の過程で適切な関わりあいがなされていなかったらどうなるであろうか? ましてや、虐待などにより幼い子どもが長年にわたって、戦うことも逃げることもできない状況にさらされ続けたら、どうなるだろうか? 当然、社会に出てうまくやっていくための「人とつながるための迷走神経」が十分に育たない。そうして、発達が不十分な「生きづらい」神経系を抱えた人たちは、成長後も人と関わったり、まわりに合わせてうまくやっていくのが難しく、この社会で生きていくことに困難をおぼえ、生きづらさを感じることになってしまうのである。

人類の負の遺産から自由になるには

 トラウマというと、地震や災害などに遭遇した場合に被るイメージがある。しかし、先に述べたように、幼いときに繰り返し不適切な対応をされ、「安全」を感じることができず、健やかな自己像と世界観を獲得することができなかったことも、トラウマとなるのである。虐待がなかったからトラウマはないというのも早計で、安全と絆が感じられない不適切な対応が繰り返される「不適切養育」はトラウマを引き起こしうる。

 これは単に親だけの問題ではない。戦争や災害、搾取や差別などでトラウマを受け、神経系が十分に発達せず、調整がうまくいかない人が親になり、その人がまた、不適切養育を次世代に施す、という人類の負の遺産がその根底には存在している。さらに、能力で人に値札をつけるような社会的風潮によって、幼い頃から競争にさらされていては、人とつながってお互いに癒し合う方法を学ぶことはできない。不適切養育は、親だけではなく人類全体の問題でもあるのだ。

 ポリヴェーガル理論は、私たちに安全と絆の大切さを思い出させてくれる。『その生きづらさ、発達性トラウマ?』では、ありふれた日常の中に潜む不適切養育の事例を豊富に示し、気づきを促すとともに、ポリヴェーガル理論に基づいて、自分をもう一度元気にする方法を具体的に紹介した。漫然とした生きづらさを抱え、なんとなく元気が出ない方に、ぜひ読んでいただきたい。

 トラウマを被ってしまったとしても、トラウマと向き合い、解放することは可能である。本書では、トラウマを乗り越えた先に、人としての大きな成長とより意味深い人生がもたらされるという「トラウマ後成長」についてもふれた。苦しみの中にも希望の芽があるのだ。

 本書は、新型コロナウイルスのパンデミックのさなかに出版された。今まで当然のこととして楽しんできた人との触れ合いが、著しく制限される事態となった。あらためて、人と人とのつながり、絆の大切さに気づかされた人も多いだろう。私たちは、見えないウイルスへの恐怖と、将来への不安にさらされている。その中で去る2020年春には、ポージェス博士による日本の心理臨床家のためのオンライン講義がおこなわれた。博士は、このコロナ禍でこそポリヴェーガル理論にのっとり、絆を確かめ合い、つながり合うことが大切だと力を込めて語ってくれた。本書も、絆を強め、希望をもたらしたいという思いでしたためた。ポージェス博士は、新たな神経系の理解を基にポリヴェーガル理論を構築してくれた。今度は、私たちが日常の中でその理論を実践し、「安全」と「絆」を高めていく必要があるだろう。

※関連記事:自律神経系から取り戻す心身そして社会とのつながり 画期的な「ポリヴェーガル理論」とは

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