自律神経系から取り戻す心身そして社会とのつながり 画期的な「ポリヴェーガル理論」とは
記事:春秋社
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私たちは、「心」と「身体」を切り離して考える社会に長い間生きてきたように思える。「心」が不調に陥れば精神科や心療内科を受診し、「身体」に問題が生じたときは、原因と考えられる臓器等の部位に働きかける治療が行われる。
高度に発達した「心」は科学を促進し、病を克服し、生産性をあげ、幸福の追求に寄与し、芸術など私たちの人生を彩り豊かにしてくれるものを生み出してきた一方で、そんな「心」を思うように操縦できないことに、私たちは悩まされてきた。また、「身体」に目を転じれば、健康の大切さこそ認識されてはいるものの、長いことその位置づけはあくまでも「心」の乗り物のようなものに過ぎなかったと言える。
さまざまな局面で時代の転換期を迎えているとも言われて久しいが、総じて、私たちの多くは科学の進歩の恩恵を受け、豊かな日々を享受している。しかし2020年のユニセフの子どもの幸福度調査では、先進国38か国中、日本の子どもの幸福度は最下位に近い37位であった。日本の自殺者は、近年減少傾向にあるとはいえ、年間2万人近いとも言われている。経済的には豊かであるはずなのに、どうも何かが嚙み合っていない。これは、先進国の多くでみられる、共通の課題ではないかと思われる。これらの問題を精神生理学から考えてみようとするのが「ポリヴェーガル理論」である。
「ポリヴェーガル理論」は、精神生理学・行動神経学者のステファン・W・ポージェス博士によって、1994年にはじめて提唱された。ポージェス博士は、イリノイ大学精神医学科名誉教授を経て、いくつかの研究所で代表を歴任し、2020年秋には、研究者と臨床家が情報を共有し、社会に貢献する場として「ポリヴェーガル・インスティテュート」を創設した。
ポリヴェーガル理論は、非常に学際的かつ複雑なもので、まだ解明されていない脳や神経系の働きや、その関係性も含めて捉えようとする壮大な理論だといえる。そのため、要点を絞ると言っても難しいが、特に自律神経系の働きについての洞察が、トラウマ治療の専門家によって臨床応用されたため、欧米で広く知られることになった。
「ポリ・ヴェーガル」とは、「複数の・迷走神経」を意味し、「多重迷走神経理論」という訳語が使われることもある。ポージェス博士は、自律神経系の発達を進化を軸に考察し、私たちヒトの自律神経系には3つの神経枝があると論じた。その3つとは太古の魚類に備わっていたとされる、進化的に古い迷走神経である「背側迷走神経複合体」、さらに硬骨魚の時代に現れたとされる「交感神経系」、そして、哺乳類のみに見られる新しい迷走神経とされる「腹側迷走神経複合体」である。「腹側迷走神経複合体」は、豊かな表情を作ったり、声のトーンを調整して自分の気持ちを伝えたり、相手からの友好の合図を受け取ったりなどの、人と人とがおだやかにつながり、交流するために欠かせない働きを担っている。「交感神経系」は、主に活動するときに使われ、危機に瀕すると「戦うか・逃げるか」を選択する。「背側迷走神経複合体」は消化吸収や睡眠などを司っているが、生命の危機に瀕すると、「凍りつき反応」を引き起こす。「凍りつき」の状態では、思うように身体が動かなくなり、呼吸や心拍が遅くなり、いわゆる温存モードに入る。この、戦うことも逃げることもできず、凍りついている状態にあるのがトラウマを抱える人とされる。
「腹側迷走神経複合体」が健全に機能している人は他者から非友好的な態度を取られても、社会的交流を心がけることができ、容易に交感神経系に乗っ取られて闘争・逃走反応に走ることはめったにない。「腹側迷走神経複合体」がバランスよく働いているときは、「背側迷走神経複合体」もよく機能しているので、胃腸をはじめ、全身状態が良好である。また、脳にも十分な血流がいきわたり、明快な思考、的確な状況判断などが行える。こうした自律神経系の働きが乱れると、臓器が調整不全に陥り、思考も乱され感情も荒廃する。
ポリヴェーガル理論は、人間の全体性を理解するのに役立つ。ポリヴェーガル理論は、「心」と「身体」が切り離されている存在ではなく、自律神経系を通して全体として機能していることを明快に説明した。私たちは、脳こそが生命および精神的な活動の司令塔だと思っている節があるが、むしろ身体からの信号が私たちの思考や自己像、世界観に多大な影響を持つことがわかってきた。
ポリヴェーガル理論では、個人は他者とつながることで自律神経系が健やかに機能すると論じている。他者とのつながりを促進する「人とつながる迷走神経」が健全に機能しているとき、人々は「安全である」という友好の合図を送り合い、絆を感じることで神経系のレベルで癒されるのである。それによりおのずと心身の健康も増進される。
私たちの身体は、パーツの寄せ集めではなく、社会も個人の寄せ集めではない。それぞれのパーツが、健やかにつながり合っているときに、私たちは幸福を感じ、社会もまた安全で心地よい場になっていく。私たちは有機的なつながりを持った存在であることを、ポリヴェーガル理論は思い出させてくれるのである。