メディア王とトランプが手を結んだ12年越しの「トランプ劇場」の裏側 『メディアが動かすアメリカ』
記事:筑摩書房
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2017年のトランプ政権冒頭から、CNNは大統領との対立姿勢を鮮明にした。だが、そのCNNの社長のジェフ・ザッカーが、前職のNBC幹部時代にトランプ主演のリアリティ番組「アプレンティス(The Apprentice)」を仕掛け、トランプを不動産王からテレビタレントに押し上げた張本人であることはあまり知られていない。テレビ衰退のなかでトランプはその特異なキャラクターと爆弾発言で集客力抜群の救世主だった。大統領選挙ではトランプへの集中報道、政権発足後はホワイトハウスとの「抗争劇」で視聴率を稼いできた。自分たちでトランプを人気者にしておいて、いざ勝利したら「ショックです」とはマッチポンプも甚だしいが、アメリカのメディアは娯楽価値に引き寄せられ、いうなればトランプとメディア王が手を結ぶ12年越しの「トランプ劇場」に全米と世界を巻き込んできた。
芸能人政治家は今に始まったことではないが、テレビで「本人役」を演じた大統領は初めてだ。映画やドラマで俳優は架空の人物を演じる。レーガンもシュワルツェネッガーも、有権者の意識上は俳優と政治家の「像」が分離されていた。だが、リアリティテレビは、現実の世界で「本人役」を演じる。この差は小さくない。トランプにとっては、会社経営も番組も政治も同じ「トランプ役」の舞台である。
彼は番組を盛り上げる天才であり、次回の視聴率を高める秘策を練るのが好きだった。無定形に見える内政でも外交でも、一挙一動をその観点から逆算して観察すると一貫性も浮き彫りになる。政治がトランプにリアリティテレビ化されたとの批判もあるが、テレビがそれを率先して造り上げてきたのも事実だ。政治と仮想リアリティの映像娯楽の融解は、政治監視を担うはずのジャーナリストが政治コメンテーターの「本人役」での映画出演を興味本位で引き受け始めた1990年代には始まっていた。
本書ではアメリカのメディアを批判的に検証しつつ、その価値も浮き彫りにする。「ジャーナリズムとしてのコメディ」に象徴される風刺文化は独特である。また、アメリカには移民大国らしい「エスニックメディア」もある。主流メディアと双方の動向を両睨みしないとアメリカのメディアの全体像は見えない。とりわけ近年は中国の台頭やプラットフォームの多様化でアジア系メディアは激変期に入っている。諸外国による水面下での「シャープパワー」としての広報戦がローカルの「エスニックメディア」に入り込んできたとき、「エスニックメディア」がコミュニティのためのジャーナリズムであり続けられるのか岐路に立たされている。
人種、経済格差など未解決の深刻な政治課題を抱えるアメリカについては否定的な情報が溢れている。だが、自国の負の面も相当なボリュームで世界に流布されるのは、プレスの自由が成熟した社会では常だ。マイケル・ムーアを例に挙げるまでもなく、アメリカのメディアは自ら熱心に暗部をえぐり出す。外国プレスもアメリカ国内を自由に闊歩して、世界中の言語で「アメリカの病理」を伝える。政治対立も、もう一つの権力監視だ。選挙のたびに政党や候補者陣営は、「国益」度外視の厳しい追及を相手陣営に対して行う。
私たちは、メディアが繰り広げる特ダネ競争は不毛で「新聞もテレビも1社で十分」と思いがちだ。だが、競争がなくなればメディアはただの「官報」になる。問題は横並びの競争で、複数のメディアが独自の目線で「競う」こと自体は民主主義の要だ。アメリカの保守系テレビ「FOXニュース」はたしかに偏っている。しかし、それは「偏る自由」があることの証でもある。求められているのは、アメリカのメディアの何が問題で、どこにデモクラシーの希望があるかを見失わない座標軸である。権威主義体制下のメディアが「ジャーナリズム」の顔をして国際的に浸透していく時代、不可欠の物差しでもある。民主主義社会を前提に構築された欧米のメディア理論がどこまで権威主義体制下のメディア分析に適用できるのか。本書がその問いかけのきっかけにもなれば幸いだ。
【webちくまより転載】