映画『マトリックス』世界的ヒットの裏にあった、トランスメディアの仕掛けとは
記事:晶文社
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『マトリックス』のホームページ用に委嘱された25話のコミックのうちのひとつに、ピーター・バッグによる不遜なコミック「おわかり?」(“Get It?”)がある。友達3人がウォシャウスキ姉妹の作品を初めて鑑賞し、見終わって映画館から出てきたところだ。このうちの2人には、『マトリックス(The Matrix)』(1999)は人生を変えるような体験だ。
「うわー! マジヤバかった!」
「『マトリックス』、ここんとこ見た中では最高の映画だったよ!」
3人目は戸惑っている。前を歩いている老夫婦のパっとしない顔の表情からして、この青年の困惑はとくに珍しくはない。「全然わかんなかったよ!」
「つまりずーっと見ながら悩んでたってこと?」
地元のバーに引っこんで、友達のうちのひとりが『マトリックス』についてしつこく説明しようとする。とくに作られたリアリティ、機械に管理された世界、「接続する」という概念についてなどだ。もうひとりはもっと悲観的で、「君にはわかりっこないと思うな」とぼやいている。あわれな仲間が歩み去っていくと、後の2人は人工頭脳を持つ「エージェント」であることがわかり、「本当は何が起こっているかわかるヒューマノイドが少ないほど、破壊しないといけないやつらも減る」ので、ほとんどの人間はこの映画が理解できないというのは好都合だと認める。
バッグはコミック『ヘイト(Hate)』(1990〜1998)やその後に『リーズン(Reason)』誌に書いた鋭い社会諷刺もので名を上げており、ここでは『マトリックス』が「わかる」者とわからない者を対比している。この映画には観客が途方にくれてしまうようなところがある一方、この映画のおかげで力強い喜びを感じる観客もいる。バッグは『マトリックス』第1作公開直後にこのコミックを描いた。これから見ていくように、ここから話は複雑になる一方だった。
これほど消費者に多くを要求した映画シリーズはなかった。第1作『マトリックス』が私たちに提示した世界というのは、リアリティと幻影の境界が常にぼやけており、人間の肉体が機械を稼働させるためのエネルギー源として蓄えられている一方、人間の心はデジタル幻覚の世界に住んでいるというものだった。ハッカーから救世主となる主人公ネオはザイオンの抵抗運動に引き込まれる。この抵抗運動は、自らの野心的な目的を実現すべくリアリティを構築する「エージェント」を転覆させようとして工作を行なっている。第1作封切り前の広告は、「マトリックスとは何だ?」という問いかけから答えを求めるウェブ検索に観客を誘導し、じらせるというものだった。続編『マトリックス リローデッド(The Matrix Reloaded)』(2003)は前作の内容要約なしに始まり、観客が作品の複雑な神話的体系や常に増え続ける脇役のキャスト陣についてほぼ完璧に理解している想定で進む。本作は、第3作『マトリックス レボリューションズ(The Matrix Revolutions)』(2003)を見れば全部わかるという約束で突然終わってしまう。見ているものを本当にきちんと評価するには課題をこなさねばならない。
製作陣は、コンピュータゲームをやらないとわからないような手がかりをばらまいている。短編アニメシリーズで明らかにされる物語の背景にも依拠しているが、これはウェブでダウンロードするか、別のDVDで見る必要がある。ファンは焦り、眩惑され、混乱して映画館から走り出し、インターネットにつないで掲示板の議論に駆け込むが、そこではあらゆる細かい点が吟味され、あらゆるありそうな解釈が議論されている。
前の世代が映画を「わかった」かどうか不安になる時というのは、たいがいヨーロッパのアート映画か、あるいはおそらくあまり知られていない深夜上映のカルト映画を見た時だった。しかしながら『マトリックス リローデッド』はR指定映画の興行成績をすべて塗り替え、公開4日目にして1億3400万ドルという驚くべき収入をあげた。ゲームは市場に出て一週間で100万本以上売れた。映画が公開される前ですら、映画に行く習慣のある米国人の8割が『マトリックス リローデッド』を「必見」映画だと見なしていた。
『マトリックス』はメディア・コンヴァージェンスの時代のエンタメであり、複数のテクストを統合してひとつのメディアにはおさまらないほど大きな物語をつくっている。ウォシャウスキ姉妹はトランスメディアの駆け引きに長けており、最初に映画第一作を出して関心を惹きつけ、ウェブコミックを提供してもっと情報が欲しいという筋金入りのファンの渇望を保ち、第2作の期待に応じてアニメを始動させ、一緒にゲームも公開して宣伝を盛り上げ、全てのサイクルを『マトリックス レボリューションズ』に収束させたのち、全神話体系をMMORPGのプレイヤーたちに譲り渡した。ここまでの歩みはすべてそれ以前のものの上に築かれていた一方、新しい参入機会もあった。
(中略)
いや、まあ、つまりフランチャイズ自体は革新的なのだが、でも『マトリックス』はいい作品なのだろうか? 十分自己完結していないがゆえに支離滅裂に近い形になっているということで、二作目以降の続編をけなした映画批評家はたくさんいた。映画に頼りすぎだということでゲームをけなしたゲーム批評家もたくさんいた。自分たちが『マトリックス』の世界について考えていた理論のほうが映画で見たどれよりも豊かで繊細だったということで幻滅したファンもたくさんいた。しかしながら私が考えるに、複数のメディアで展開する作品を評価するのに適した美的基準というのはまだあまりない。完全にトランスメディアで語られた物語というのは、まだ数が少なすぎる。そのため、メディアコンテンツを作っているほうはこの新しいストーリーテリングのモードを最適な形で活用するには何が要るのかについてあまり確信をもって行動できずにいる。批評家や消費者のほうも、こうしたフランチャイズでは何がうまくいっていて何がうまくいっていないのかといったことについて、どうやったら意義ある形で議論できるのか、把握していない。そういうわけで、今のところ『マトリックス』は欠点もある実験で、興味深い失敗だが、その欠点は実現しようとしたことの重要性を減じるものではないということにしておこう。
(『コンヴァージェンス・カルチャー』(渡部宏樹+北村紗衣+阿部康人=訳)第3章「折り紙ユニコーンを探して――『マトリックス』とトランスメディアのストーリーテリング」より抜粋) ※本記事の小見出しは、担当編集者が追記。