「おばあさんはずっと高齢者だったわけじゃない」 気づきを生む差異との向き合い方「現場グラフィー」
記事:明石書店
記事:明石書店
ダイバーシティ? よくわからない。
でも
「『当事者』の問題」で終わらせたくはないし、
「多様性の尊重」ではきれいごとすぎる
そんなわたしにとって、地域と人を観る・知る・協働する道具立て
ダイバーシティ推進という標語は、どこかひっかかる。学校や職場で存在する、排除的な関係を改善するツールとなる一方で、特定の人々を「当事者」として連想させ、マジョリティ―マイノリティ関係をより頑なにしてしまうような難しさがあるから。
だからといって。
ダイバーシティ推進という標語を悪くいうことには躊躇いがある。それを正面から批判することで、目の前にある課題が解決されるわけではないから。困難に直面する個人への配慮の必要性は切実だ。だからその言葉遣いを批判するだけでは、課題に直面する「現場」に向き合えない。
でも他方で、「女性」「障がい者」「高齢者」「外国人」「性的マイノリティ」といった同質性をもつ(かのような)カテゴリーへと個人を束ねることは、その内にあるひとつひとつの人生、一人ひとりの間にある差異を見えにくくする。労働力としての可能性や、企業の社会的貢献といった意義を与えられることで、自分のアイデンティティから離れた次元で、社会の要請や配慮に「見合う」存在たることを期待される。
だから。ダイバーシティ推進という標語に縛られない地点から、「地域を成す多様なひとたち」に近づくところからスタートしたい。本書はそんな意図をもって編まれた。等身大の現場でのエピソードを重ねることで、実際に、地域もそこに住まう人々にもいろいろな見え方があり、唯一の「正しさ」で不変的に価値づけられたり、経済活動の推進のために動員されたりするものでもないことが実感できたらと。
マジョリティから都合よく束ねられたり、「多様な個人がいるよね」といった物わかりの良さげでつるんとした、でも無責任な個人観で済ませられたりしない、自分の手触り感からはじまる「ダイバーシティ」への接近の糸口を見出したい。そのための道具立てが、「現場グラフィー」だった。
文化人類学はじめ広く社会科学やビジネスの領域で活用されているエスノグラフィーの技法に関する本は数多くあり、それを学生や市民の手に誘う良書もある。しかし、本書ではこれを、いわゆる質的調査方法の下位概念で、特定の「調べること」に関心ある者のための技法という位置づけからも解き放ち、日常的な人間関係の構築や協働プロセスの一部を成す営みとして抽出したかった。
目的によってその場に誘われるのではなく、その場にすでにいる人たちが主体となってテイクノーツ*が始まり、何かしらの気づきが仕事に生かされたり、関係性の変化につながったりする。エスノグラフィーであるかどうかも、もはや問わない。文化人類学者も、その場にいたり、いなかったりする。そのことを強調するために、エスノグラフィーという専門用語から離れ、現場グラフィーという造語を要した。
調査研究といった名目の有無にかかわらず、そしてその行為の主体が誰であるかにかかわらず、ある地域を創る、地域で暮らす者にとって身近で日常的な営み、つまり「現場グラフィー」へと開放することで、この先、「ダイバーシティ」をかたどり直すことができるのではないか、そんな予感と期待を込めている。
*テイクノーツ:自分の見聞きしたことを書き記し、ときに撮り、嗅ぎ、感じ、吟味し、記憶と記録にとどめること。
差異は誰かの「側」にあるのではない。差異はわたしたちの間に現れ、その切り口は複合的で多面的だ。それは同時に、観方を変えれば「違う同士」が「似たもの同士」にも見える、ということでもある。だから、差異とのつきあいかたが変われば、自分のことも他者のことも、目の前の風景も、すこし違って見えてくる。現場グラフィーは、そのことを教えてくれる。そしてそれは、専門的な調査研究を目的とするまとまりをもたなくても、日常的な「差異とのつきあい方」を、「他者としてのわたし」目線から観る手がかりを与えてくれる。
例えばこの本の中では、「おばあちゃん」がずっと「高齢者」だったわけではないこと、かつては「若い娘さんだったこと」に大学生が気づいたり、バリアフリーの「バリア」が何なのかに悩み始めたりする。あるいは中山間地の過疎地域にある急斜面が、ちょっと違った着眼と観察と言語化によって世界農業遺産にもなる。地域で受け継がれてきたと思われている「伝統文化」だって、今なお新たに手を加えられ少しずつ変わっている。生み出しているのはその地で今を生きている人、つまり、あなたであり、わたしである。そして、そうした人々によって織りなされる地域とて、「被災地」や「過疎地」としての一面的な位置づけにおさまるものではない。
このように、地域や人々の個別性や、その間に横たわる差異の意味付けを、まずは身をもって実感すること。それが、「ダイバーシティ」を異なる諸単位(個人や集団)の承認と多様性の称揚にとどめず、それらの間の関係を揺らがせ変えてゆく一歩になるだろう。それができるのは、地域に住まい、働く、誰もなのだ。どこか遠くにある理想ではなく、目の前の関係として。「当事者」と「無関係の人」に切り分けられない、身体感覚をもって。
差異を生むわたしたちは、共に、逡巡し続ける。それは同調と共感だけでなく、違和感を抱きしめて同時代を生きる、そんな実感を共有することではないだろうか。この本が、これまで他人事だったモノ、コトと自分をつなげるきっかけになることを願う。