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『文化人類学の思考法』 松村圭一郎 X 若林恵 対談「いま、あたりまえの外へ」

記事:世界思想社

若林恵(左)/松村圭一郎(右)
若林恵(左)/松村圭一郎(右)

なんで“あたりまえ”の外へ出る必要があるんだ

松村 最初のイベントの対談相手として、今回は若林さん以外考えられなかったんです。だって若林さんからいただいた推薦文、表紙でこんなに大きく使わせていただいたので。タイトルよりもスペースを取っているくらい。スペース的には、若林さんの本じゃないかって思ってしまいますよね。

若林 自分が書いた本みたいに見えるという。本当にありがたいことです(笑)

松村 編者名より推薦者の若林さんの名前が大きい。こういうケースは時々あるんですけれどもね。これがまたいい推薦文で。

若林 本当ですか。よかったです。

松村 特に、今回のイベントのテーマである「あたりまえの外へ」って、なにげない言葉なんですけれども、人類学者にとって、はっとさせられる言葉だったんです。文化人類学者って、フィールドワークと称していろんなところに出かけていきます。私はエチオピアですけれども、別に遠くじゃなくても、病院の中とか、企業や研究所の中とか、日ごろ暮らしている日常からわざわざ外に出ることを職業としている。

 でもなんでどっかに行くんですかって聞かれたら、日常的な言葉ではうまく答えられない。それが人類学なんです、みたいな。でも、それは「あたりまえの外へ出る必要があるからなんだよ」って、一言でばしっと言われてしまった感じがありました。

『文化人類学の思考法』(世界思想社)
『文化人類学の思考法』(世界思想社)

若林 『WIRED』というメディアで、いわゆる「イノベーション」なんてものを扱うなかでも「あたりまえを疑う」といったことは、よく言われていたことなんです。今までの考え方では、もうこれからの社会は生きていけないという危機感が、特にビジネスサイドではものすごくありまして、「0から1を生み出さないといけない」なんてことがいたるところで言われるわけです。

 日本というのは、実は1を10にするとか、10を100にするというのがすごい得意で、0→1というところがすごい苦手なんですよね。やっぱりそのときに、いかに今までの、今の状況を疑うことが必要になってきます。

 例えばAirbnbというのが出てきたときに、「人の家なんか、誰も泊まらないから」という批判があたりまえにあったんです。「こんなビジネスは成功しないだろう」と。でもトランプ大統領を支持したことで有名になったピーター・ティールというベンチャーキャピタルの方がいるんですが、彼はそれに巨額の出資をして、大当たりする。特にいまのように、過去のやり口がどんどん通用しなくなっている世界にあっては、“あたりまえ”を疑うというのは、ビジネス上とても大切なんです。とはいえ、正しく“あたりまえ”を疑うことのできる人間というのはとても少なくて、やろうと思っても実際は、そう簡単にはできないものなんです。

松村 文化人類学者はそれを職業としてきていて、でも世の中ではほとんど日の目を見ないというか、ビジネスの世界なんかとは縁遠いですよね。世の中に背を向けながら“あたりまえ”を疑い続けていた、という感じがちょっとあったんです。

若林 僕は71年生まれで、大学に通っていたのが90年から95年くらいでしたけど、その頃は、まだ文化人類学って、なんとなく流行っていた気はするんです。山口昌男さんのご威光はまだあったし、今福龍太先生など新しい世代の人たちも出てきて、文化人類学ってかっこいいなみたいな印象はあったんですけど。同じ世代の人だとわかっていただけるかとも思うんですが。

松村 うなずいているのが100人中5~6人ぐらい。

若林 僕は結構憧れましたね。文化人類学。出不精なんで、フィールド調査とか、自分には無理だな、って思ってましたけど(笑)

なぜ若林さんなのか

松村 そもそもなぜ若林さんに推薦文の依頼をしたかというと、『WIRED』でアフリカ特集があって。『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)という本を私が出したちょっと後ぐらい。そこに現代音楽家の「コンピューターにはアフリカが足りない」というキーワードがあったんです。

若林 ブライアン・イーノの言葉ですね。

松村 これがアフリカをやっている人間にしたら、もうビビっとくるわけですよ。

若林 きますよね。

若林恵さんによる推薦文
若林恵さんによる推薦文

松村 日本とアフリカを往復しながら、日本社会についてずっとそういうことを思っていたんです。この「アフリカが足りない」というこのシンプルな言葉は的を射ている感じで、WIREDの目のつけどころすごいなって。そのあとすぐ編集長だった若林さんが『さよなら未来』(岩波書店)という本を出されたんですよね。テクノロジーの話だと思って最初すぐには手に取らなかったんです。

 でも出版社の方に勧められて、読んでみたら、いきなり謝辞が出てくるんですよね。それがとてもいい文章で。「S君のこと」という見出しですが、もう人類学の「じ」の字も出てこない。学問的な話じゃなくて、あるデザイン事務所での話ですね。

若林 そうです。僕がとあるデザイン事務所に勤めていた時の話ですね。

松村 その現場の話なんですが、人類学者がやっていることそのものだった。たとえば、雑誌を作るときに、「そもそも雑誌である必要があるのか」というところから議論を始めると。そこで打ちのめされるという話がある。

 担当の編集者に許可を得て、その「S君のこと」という文章を私の文化人類学の授業の最後に学生に配ったんですよ。それまでは、日本の古くからの山の神の信仰とか、柳田國男の話とか民俗学のディープな話をしていて、ずっと学生はぽかんとしている感じでした。でも「S君のこと」を読んでもらって、なんでこんなことを授業で考えてきたか、という話をしたんですね。あたりまえすぎて疑うこともしていない「日本人」とか「日本文化」ってことを、根本から問いなおしてきたんだよ、と。君たちもたぶん社会に出たらこういうことを経験するはずだから、という感じで使わせていただいたら、むちゃくちゃ反応が良かった。

若林 まじですか。

松村 学生が、最初からそれ言えよ、みたいな感じになって(笑)。若林さんの文章、いまの学生にもストレートに響くものがある。今回の『文化人類学の思考法』は、できれば人類学を知らない人にも手にとってもらいたいという思いがあって、若林さんに推薦文をお願いしたんです。

ちょっとは世の中がましになるんじゃないかなという淡い希望があるんです

松村 若林さんはこの本のパッケージングというか、この編集の方向性とか、どういうふうに見られましたか。編集者としての目線からみて。

若林 最初の前書きのところでも書かれているように、文化人類学の中でも、新しい研究手法や研究成果が、色々とあるわけですよね。それを、細かく項目化していって、それまでの理論とそれがどう違っているのかを説明していくというのが、おそらくは従来のやり方なんだと思うんです。

 それをそうでないやり方にして、それぞれの手法や理論ではなく、むしろ扱う対象やトピックを前景に置いたのが、まずはとてもうまいなと思いましたね。しかも、そのトピックがわたしたちにある意味身近なものばかりですから、文化人類学という学問が、どういうふうにそれと向き合い、考えを進化させてきたかがむしろよくわかるし、加えて、ひとつのトピックが次のトピックへとまたがっていくので、扱っている問題の広がりや関連性もよく見えます。構成は、ほんとに見事なものだと思いました。

松村 最初、世界思想社からのオファーは、教科書を作ってください、だったんですよね。世界思想社が出している教科書の名著で『文化人類学を学ぶ人のために』という26刷(2020年12月現在27刷)も版を重ねているものがある。もう30年前ですかね、出版されたのが。

若林 1990年代くらい。

松村 1990年ぐらいですね。もう今はベテランの人類学者たちが、われわれぐらいの世代だったときに、上の世代の人を代表編者に担いで書いているんですね。これがずっと教科書として使われ続けてきました。それを新しくしたいというのが最初の提案だった。でも本当に学会の重鎮みたいな人が並んでいるわけですよ、執筆陣に。その改訂版を作れと……。

若林 それは荷が重そう(笑)

松村 いや、それは恐れ多いですって言って。ちょっと出せません、というのが最初の気持ちでした。それでもとりかかりはじめて、教科書として今の学生に読んでもらいたい内容を考えていたら、ふと変だなと思ったんですよね。「教科書」として学生に読んでもらうためだけに本をつくるってことが。

 ありがたいことに、『うしろめたさの人類学』は、人類学をほとんど知らない方にもたくさん読んでいただきました。あの本で書いてあることは、人類学ではたいして目新しくもないし、突飛な話でもないのに、なぜか一般の人がそれに反応してくれた。人類学者が考えていることって、もしかしたらより広くいろんな人に届くものなんじゃないかと思って、途中から方針転換をしたんです。

 執筆者に「この表現は堅過ぎるので書き直してください」ってお願いして。「いや、これで分かんないなんて、ちょっと意味が分かんない」って言われても、「いや、でもこの言葉じゃふつうの人には届かないです」みたいなやりとりをたくさんしました。Skypeでずっと1時間ぐらいやりとりしてお願いしたり。

『文化人類学の思考法』目次
『文化人類学の思考法』目次

若林 これを書かれている先生方は、皆さん仲良しの方なんですか。

松村 関係が近い人がほとんどです。こうやって執筆者に原稿を直してもらうって、やっぱりすごい大変な作業なんです。ふつうは、専門家が出してきた原稿にケチつけるって難しい。編者よりも、そのテーマについては詳しいわけで。あえてわれわれより上の世代に執筆をお願いしなかったのは、大幅な改稿をお願いできないからです。

 レヴィ=ストロースについての専門家とかいますし、それについて書かせたらピカイチの文章を書いてくれる。でもそれはアカデミックな世界で流通する最先端ではあっても、一般の人に届く形ではないかもしれない。それを書き直して、とお願いするのは難しいので、執筆者を考えるときに、改稿をお願いできる、コミュニケーションがとれる関係を重視して選びました。それにしても、もう何回も、3回も4回も書き直しをお願いしたんです。

若林 他の方の原稿に、実際に松村さん自身が手を入れています?

松村 私もですが、3人の編者でがんがんコメントつけて、最後の最後まで修正をお願いしました。

若林 一読してそうだろうなとは思いました。相当手を入れてますよね。ある意味本全体が、松村さんの語りというか、文体にちゃんと統一されていますよね。だから非常に読みやすい。

松村 もともと「はじめに」の文章もなくて、「序論」から始まっていたんです。でも一般の方に届くものにするのにどうするか、編集の方と何度もやりとりをして、「この書きだしだとまだ堅いです」と言われて。最初は一般的な謝辞みたいな「あとがき」を付けるつもりだったんですけれども、それはなしにして。もうワンクッション、入り口の敷居を下げて、すっと入りやすくするための「はじめに」を書いてくださいって。もう2月とかです(本書は2019年4月刊行)。

若林 本当ですか。じゃあもうぎりぎりだ。

松村 最後ですね。再校の段階ですよね。この段階で?みたいな感じですよ。それでもう私が、がっと原案を作って、他の編者に直してもらって。

若林 そもそも最初は学生向けのものだったはずなんですよね。一般向けにちゃんと届けたいというのは、どういうモチベーションなんですか。

松村 いろんな分野の方に、銀行の中にいたり、花屋さんでも、本屋さんでも。文化人類学者的なものの考え方ができたり、見方ができる人が社会に1人でも増えたら、ちょっとは世の中がましになるんじゃないかなという淡い希望があるんです。

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