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仏と〈私〉はどう違うのか? 如来蔵思想の魅力と課題

記事:春秋社

如来蔵思想とは何か

 如来蔵思想とは一般に「すべての衆生の成仏の可能性を認める」思想とされるが、著者はもう一歩踏み込んだ定義を行っている。なぜならば、私たちには成仏できるかどうかはわからず、そのように説くことができるのは仏のみだからである。著者はこの点に注目して、

如来蔵思想:一切衆生は如来を本性としており、そのことに基づいて、万人がブッダに成り得る可能性を如来が衆生の内に見いだして、そのことを大慈悲に基づいて衆生に知らしめ、衆生に信を生じさせる教説本書、12頁

 としている。そこには、仏ではなく阿羅漢を目指す小乗仏教とは異なる、成仏そのものを目指す大乗仏教の性格が大きく出ている。成仏を目指す大乗仏教徒に、その根拠を与える教えなのであり、大乗仏教の大きな特徴である「慈悲」の精神が深く窺えるのである。

常住の身体

 如来蔵思想は、大乗仏教のもう一つの特徴を踏まえて生まれた。それは如来の常住の思想である。釈尊の入滅(死去)は仮の姿であり、真実の姿は法よりなる常住の身体であると見なす考え方である。無常であり不浄である私たちに対する存在として、如来は常住・堅固・寂静・恒常という四句で表現されるようになった。これも諸行無常・諸法無我を旨とする小乗と異なる点である。

 ここに釈尊の遺骨を納めた仏塔崇拝が加わる。仏の遺骨を意味する「ブッダ・ダートゥ」は仏の本質(仏性)という意味にもとれるため、仏塔は生ける釈尊と同等のものと見なされるようになった。このような状況を背景に、『涅槃経』が「一切衆生悉有仏性(すべての人々には仏の本質(仏の遺骨)がある)」を主張したことで、すべての衆生の仏塔化(=ブッダ化)が宣言されることとなった。

 こうして、仏と凡夫の〈私〉との距離は一気に縮まり、成仏を確約された〈私〉は常住・永遠の仏に迷うことなく進むことができるのである。これは悟りを目指す仏教徒にとって如来蔵思想の大きな魅力といえるであろう。

如来蔵思想の課題と克服

 それではこれほど魅力的な如来蔵思想は、インドでその他の二大潮流、中観思想と唯識思想を覆い隠すほどの力を持っていたかというと、そうではない。なぜならば、如来蔵思想には、大きな問題点があったからである。今まで読んできた方にも、次のような2つの疑問が生じるであろう。

 1、仏の本質を持っているのならば、修行する必要はないのではないか。

 2、仏の清浄な本質を持っているのに、なぜ煩悩によって不浄であるのか。

 この2点を、著者は1を修道論的課題、2を構造的課題としている。ある意味、この課題の克服が、如来蔵思想の歴史といってもよいであろう。『涅槃経』は成仏できないもの(一闡提)がいるとして例外を認め、『勝鬘経』は如来蔵を煩悩と真如のよりどころとするなどして、その克服を試みたが、うまくいかなかった。

 しかし、成功した経典も存在する。それが、涅槃経系経典群の終極に位置する『大法鼓経』である。著者は、『大法鼓経』が如来法身を放棄し、いまだ自在性を得ていないアートマンの実在を主張することで解決したことを論証している。それは如来蔵思想の魅力を失わず、2つの課題をも克服できる、みごとな回答といえる。

 そこにはまさに如来蔵思想に魅了され果敢に取り組んだ先人の熱意が窺えるのである。著者は末尾で次のように述べて締めくくっている。

如来蔵・仏性系諸経論が取り組んだ、〝如来蔵・仏性・アートマンがあるからこそ一切衆生は成仏が可能なのだ。だからみんな、挫けることなく成仏に向かって仏道修行に邁進しよう〟という「仏教徒の決意・誓い・願い」が仏教思想史上にあったこと、就中、「自分が仏教徒であるとの自覚を持ったうえで、そのような決意・誓い・願いをした方たちがいた」という事実を、今後も大切にしてきたいと考えている。本書、227頁

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