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相模原障害者殺傷事件から考える「根源悪」について

記事:明石書店

正義の女神像(ドイツ・フランクフルト)。「正義の女神」はギリシア神話に登場する女神テミスで、司法・裁判の公正さを表す象徴として知られている。Photo by Jorbasa on Foter.com
正義の女神像(ドイツ・フランクフルト)。「正義の女神」はギリシア神話に登場する女神テミスで、司法・裁判の公正さを表す象徴として知られている。Photo by Jorbasa on Foter.com

1.東京パラ聖火「津久井やまゆり園」で採火?!

 障害者大量殺傷事件の裁判は、新型コロナウィルス感染症の拡大の最中、2020年3月16日に死刑判決が下された。植松聖被告が愛用していたイルミナティカードには「複合災害」のカードがあり、銀座の時計台が崩壊し、五輪を示すような色とりどりの服を着た人が逃げ惑う様子が描かれている。カードは、オリンピックの中止を予言していたともいわれている。

 2021年3月23日には、津久井やまゆり園で東京パラリンピックの採火をすることが発表されたが、採火をめぐって波紋が広がっている。事件を風化させず、「共生社会」を目指すというのが相模原市が採火を決めた理由ではあるが、「鎮魂の場」を「祭典の場」にすることに対して被害者家族や障害者団体からの抗議が続出しているのである。やまゆり園の入所者たちは、パラリンピックの選手でもなければその関係者でもない。無縁だというのである。抗議の背景には、県や市が遺族や被害者家族に何も説明していなかったことがあるが、そればかりではない。当事者たちには、不幸な事件を利用しようとしているようにさえ映るのである。そして5月7日、相模原市長は記者会見をし、やまゆり園での採火の方針を撤回、採火場所を変更することを表明したが当然であろう。事件現場となった津久井やまゆり園での採火を「共生社会」の象徴とするのは、欺瞞であり、偽善である。

2.『掟の門』とは何か

 さて、本書『元職員による徹底検証 相模原障害者殺傷事件――裁判の記録・被告との対話・関係者の証言』(明石書店、2021年)は、事件発生から5年目の節目にあたり、改めて事件そのものを振り返り、関係者の証言から事件当時の状況を再構成したものである。誰も知る由もなかった事件当日の生々しい状況は、法廷においてはじめて明らかにされたのだ。そればかりか、植松被告が、現役職員時代に何に影響され、何を経験したかも明らかになった。危機管理や権利擁護の中核を担う「リスク委員」に抜擢されていたというのは驚きという他はない。2020年1月10日の「津久井やまゆり園利用者支援検証委員会」(第三者委員会)の発足以来、「かながわ共同会」の複数の施設において身体拘束や虐待が常態化し、利用者目線の支援にはなっていなかったことが判明したが、津久井やまゆり園は、被害者というより、加害者であったのである。だとすれば、植松被告は「かながわ共同会」という巨大組織の中で教育された被害者であったともいえるのである。

 本書の特徴はフランツ・カフカの『訴訟』(Der Prozeß)に挿入されている『掟の門』というテキストを読み解きながら、法と〈法外なもの〉の境界線とは何か、そして、法・正義・暴力と如何なる関係にあるかについて考えてきたことをベースにしている点である。掟=法という「門」は「境界」を象徴している。

 『掟の門』(Vor dem Gesetz)という寓話は、接近不可能な物語として知られている。だが、法と「法外なもの」という観点から考察する時、有益な論点を呈示している。すなわち、法と「法外なもの」を線引きする「境界」は何かという問題である。「法外なもの」として扱われた者たちが、自らを法の外部に追いやっている法に向き合う時、直面する問題はまさにこれである。それゆえ、「法外なもの」として扱われた者たちは、批判の対象を法それ自体に向けるのではなく、法や掟の前の社会的な偏見や差別に向けているのだ。

 法に対する批判が困難なのは、批判の対象である法が批判後も存続し続けているからに他ならない。それどころか、法にとって法の外部に追いやられた「法外なもの」こそが、非合理的であったという論理が構築されてしまうのだ。「法外なもの」は、法それ自体が産み出しているにもかかわらず、法が批判の対象から逃れてしまうのだ。法は、境界を画定し、境界の画定によって「法外なもの」を排除する力を行使する。この境界による法と「法外なもの」のパラドックスを見極めれば、法批判を困難にしている問題に対して応え、法を批判の俎上に載せることができるのではなかろうか。

3.法と「法外なもの」の逆説性

 今回の事件に引き寄せて考えれば、警察による「匿名発表」がそうであった。法の外に追いやり、法の及ばない境域を設け、排除したものをそこに合法的に置く。それが『掟の門』の世界である。「被害者は障害者だから」、「遺族の意向」というのがその理由ではあるが、法権利を守られているように見えながらも、法的政治的には宙吊りの状態に置かれてしまったのだ。それが先例となって「匿名報道」、「匿名裁判」へと続く。植松被告は、意思疎通のとれない人間を「心失者」として規定し、「心失者はいらない」として犯行に及んだ。「心失者」とは、被告による心神喪失者の造語であるが、法=掟の外に追いやられた人たちである。被告は、自分は法=掟の内側の人間であり、「心失者」に人権を渡すのは誤りとまでいっている。つまり、法=掟の内側の私たちには、責任能力があるが、法の外に置かれた「心失者」には責任能力を問えないので、安楽死の対象とするべきだというのである。裁判で被告は責任能力があると認められ、法の裁きを受けられたが結果として死刑判決が下された。自分は法の内部の人間だったのに、判決と同時に法外に追いやられてしまったのである。つまり、彼の規定する「心失者」と同じ存在になってしまったのである。

 公判では、2005年から施行された「医療観察法」についての言及はなかったが、私たちもまた「お前こそいらない」として被告に死刑判決を突き付けた。しかしこの言説(「〇〇〇はいらない」)は、実は被告自身が語っていたことである。これは、いわば「同害報復」の論理である。死刑判決を支持した瞬間に、私たちもまた、被告と同種の論理に巻き込まれてしまったのである。法は正義ではない。暴力である。つまり、「判決」の瞬間に境界による「法」と「法外なもの」のパラドックスが立ち現れたのだ。法は、自らを正義として人々を信奉させる強制力を持ち、常に無傷で存在し続け、「法外なもの」を排除する力を行使する。法は、「法外なもの」を絶えず再生産・再措定するのである。死刑は「法」そのものの根源的な暴力の露呈である。法の外に追いやられたもの、法の庇護を受けられない社会的弱者にこそ、正義の可能性があるのだ。事件後「れいわ新選組」から重度障害者の国会議員が誕生したが、それが今回の事件への、いわば回答である。法暴力によって法外へと追いやられた社会的弱者が法の中に入り、法の内部を変えるとともに、法の外部の社会をも変えていく。そのことが期待されているのだ。

4.「内なる優生思想」としての「根源悪」

 コロナ禍は、社会の脆弱さ、貧困などを白日のもとにさらした。病床不足による急患受け入れ拒否、ワクチン接種の優先順位などコロナ禍に直面して人々はようやく「命の選別」の問題に気が付き始めたのだ。他方、「ネット空間」では、「自粛警察」「マスク警察」といった言葉も飛び交う。自分が行っている行為が善や正義であることを疑わず、自己の外部に不正や悪が存在するとして、その悪と闘うことで自分の存在を正当化していく。いわば、境界の内側と外側のパラドックスである。このような思潮こそ、「内なる優生思想」に他ならない。これは全人類の心にある潜在的傾向であるが、カントの概念でもってすれば「根源悪」(das radikale Böse)に他ならない。敵は外にいるのではなく、私たちの内にあるのである。

 私たちが今、問題にするべきなのは私たち一人ひとりの心の中に存在する「内なる優生思想」であろう。良い生と悪い生、役に立つか否かで選別し、敵をつくり「憎悪」を煽る戦略は新自由主義の政治の特徴となっているのである。怠けているもの、働こうとしないもの、福祉に依存するもの、社会に貢献しないもの、それらを何らかの形で「自己責任」へと結びつけ、社会の敵として標的にする。これが新自由主義的な統治の内在的なメカニズムである。批判をすることで自己を正当化、自己の存在を存在たらしめる。いわば、人間の本性が、無媒介な肯定性として他者を否定する形で露出しているのだ。否定的な感情に対して無媒介に肯定する論理は、まさに「根源悪」といえる。

 「根源悪」は冷戦崩壊後の世界において新自由主義、新保守主義という形で蔓延している人間観、価値観と捉えることができる。すなわち、それは、「強者の論理」であり、力をもった人間が自分の欲望を限りなく追及することが肯定される世界である。恐るべきは、力をもった人間ではなくても、「強者の論理」を振りかざす可能性をもっているということである。今日では、誰もがSNSで無媒介に発言できる環境にあり、建て前ではなく、今までタブーとされた本音の部分が剥き出しになっている。そしてSNSの暴力・誹謗中傷によって自死にまで追い込まれた事件も発生している。SNSが何故、人を不幸に陥れる凶器として使われてしまうのか。人は、何故、匿名の暴力を振るうのか。「強者の論理」を振りかざすものは、誰でも境界の内側と外側のパラドックスにより手痛いしっぺ返しをくらうことになるだろう。私たちの心に存在する「内なる優生思想」「根源悪」に力を与えてはならない。

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