東大か京大かで正反対 台湾の民主化運動キーパーソンの波瀾万丈な人生
記事:白水社
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彭明敏と李登輝はともに1923年生まれで台湾大学時代からの友人だったが、一方は亡命者、もう一方は総統と両極端の道を歩んだ。彭明敏は戦時下の長崎で被弾し、左手を失う。その人生は実に波瀾万丈だ。まずは、『彭明敏 蔣介石と闘った台湾人』から、長年にわたりインタビューをつづけてきた著者が彭明敏の来歴をつづる「プロローグ」を全文紹介しよう。
高台に建つマンション12階の部屋の窓から、淡水川とその後ろにそびえる観音山がくっきりと浮かび上がって見える。2019年8月、台湾北部・新北市の自宅で、私は元台湾大学教授の彭明敏と向き合っていた。もう発生から半世紀以上たつ、あの事件について長時間にわたって話を聞くのは、3年続けてのことである。
マンションに入ってすぐの部屋に、豪華な蘭の花が飾られていた。「祝彭教授明敏 生日快楽(誕生日おめでとうございます) 立法院長 蘇嘉全敬賀」と記された大型のカードが添えられている。訪問した日が彭明敏の誕生日から5日後だったため、蘇嘉全・立法院長(国会議長)から贈られた誕生祝いが置かれていたのだ。
この時、彭明敏、96歳。普通なら、世間から距離を置いてゆったりとした余生を過ごしていていいはずの老人に、与党・民主進歩党(民進党)の要人から贈り物が届く。それは、台湾政界が、今もこの人物にしか演じられない役回りを期待し、本人もそれに応えようとしているからにほかならない。命が燃え尽きるまで、台湾の民主と独立を訴え続ける。これこそが彭明敏の使命であり、それ故に台湾の歴史に刻み込まれるはずだ。
戦前、東京帝国大学で学んだ彭明敏は、日本の敗戦に伴って台湾に戻り、台北帝国大学を引き継いだ台湾大学に編入する。卒業後、同大学で研究者生活をスタートし、カナダとフランスへの留学も経て、若くして国際的に名の知れた法学者となった。そんな本省人(戦前からの台湾住民とその子孫)エリートを、蔣介石総統が率いる中国国民党(国民党)政権は重用した。権力に逆らわなければ、彭明敏は恐らく、李登輝より先に本省人として初の総統になっていただろう。
それなのに、蒋介石の「大陸反攻(中国大陸に攻め入って取り戻す)」という虚構を暴き、独裁体制を厳しく指弾する「台湾人民自救運動宣言(自救宣言)」を作成し、反乱罪容疑で逮捕される。特赦で自宅に戻ってからも軟禁生活が続いたが、緻密な計画の下、厳重な監視の目をかいくぐって海外に脱出した。そして、長く米国で台湾の民主化と独立運動に打ち込んできた。約束された未来を捨て、国民党一党独裁体制に命懸けの戦いを挑んだのである。
「僕はドン・キホーテだった」。
「自救宣言」を台湾各界に配布して社会的な議論を巻き起こし、「蔣介石の神話を打ち崩す」という目的を果たせなかった彭明敏は、そう言って自嘲した。自分は実現できない夢をかなえようとした道化師だった、と。だが、世界の歴史が証明している。「クレージー」とか「反逆者」とか呼ばれる者たちが、はた目には無謀と思える挑戦を繰り返してきたからこそ、世の中は変わってきたのだ。
2017年から始まったインタビューで、彭明敏は50年以上前の「自救宣言事件」について、驚くべき記憶力で、微に入り細にわたって証言した。なぜ、輝かしいキャリアを顧みず、自分の信念を貫いたのか。家族や仕事や社会的な地位をなげうってでも、勝ち取らなければならないものは何だったのか──。
インタビューにはネイティブ同然の日本語で応じ、一貫して威厳に満ちた口ぶりだったが、丁寧な説明が必要なところは、学者らしく慎重に言葉を選びながら、努めて正確に答えた。その内容によって、時に昨日のことのように悔しさを表し、時にユーモアを交えながら。
台湾は1990年代になって、戦後40年以上続いた権威主義体制に終止符を打ち、民主化を成し遂げた。今では、過去の独裁体制を糾弾しても、現在の政府を非難しても、誰もとがめられることはない。
だが、かつては政権を批判すると、逮捕や処刑を免れなかった。それどころか、「共産党のスパイを摘発する」との名目で、数え切れない人々が無実の罪を着せられた。そんな社会に変革をもたらしたのが、彭明敏のような「ドン・キホーテ」たちなのである。
一方、彭明敏と同じ年に生まれた李登輝も、戦前は京都帝国大学に籍を置くエリートだった。彭明敏とは台湾大学時代からの友人だったが、国民党の懐に飛び込み、内部から改革するやり方を選んだ。ともに日本統治時代の台湾で生を受け、日本の帝国大学に進んだ2人は、最高指導者と海外亡命者という正反対の人生を歩んだのである。
国民党の主流派だった外省人(戦後、国民党政権とともに中国から台湾に移ってきた人々とその子孫)の守旧勢力との闘いに打ち勝ち、台湾に民主化をもたらした李登輝は、国際社会で「台湾民主化の父」「民主先生(ミスター・デモクラシー)」と称賛された。
実際には、李登輝は海外や野党など外部からの圧力を巧みに利用しながら、一歩一歩、政治改革に取り組んできた。李登輝と彭明敏はコインの裏表のように、それとなく意思を通じながら、民主化を進めてきたのである。
時は流れて、台湾の民主化は揺るぎないものとなり、指名手配が取り消された彭明敏は1992年、22年ぶりに祖国・台湾の土を踏んだ。まるで凱旋将軍を出迎えるかのように、空港には約2000人の支持者が集まった。そして、その4年後、台湾で初めて実施された総統直接選挙で、彭明敏は野党・民進党の公認候補として国民党現職の李登輝と相まみえる。古い友人の二人は初めて同じ政治の舞台に立ち、真っ向から切り結んだのである。
ただし、彭明敏は選挙戦で徹底的に国民党をたたいたが、最後まで李登輝に対する批判は控えた。それは、彭明敏が台湾の民主化推進における李登輝の役割を評価していたからである。李登輝も台湾の民主化に対する彭明敏の貢献を認め、個人攻撃は一切しなかった。
敗れはしたものの、かつての「国家反逆者」がトップリーダーの地位をうかがう戦いに参加したのである。2000年の初の政権交代で発足した民進党の陳水扁政権では、総統府資政(総統の上級顧問)の重責も担った。彭明敏の人生は、台湾民主化の歴史を体現している。
李登輝は2020年7月30日、多くの人に惜しまれながら97年にわたる生涯を終えた。彭明敏は翌日の台湾紙『自由時報』に「李登輝と私」と題した長い追悼文を寄稿し、台湾大学で知り合って以来の関係を振り返り、「台湾が経済、政治、文化、社会など各方面で転換期にあった中、彼はこの重要な時期に政治的な成功を収め、有形無形の大きな功績を残した。台湾史上、永久に偉大な地位を占め続けるだろう」と締めくくった。彭明敏は総統府から、9月19日に執り行われた告別式と10月7日に営まれた埋葬式の葬儀委員32人の1人に任命された。
70年を超える2人の交遊は李登輝の死去によって終焉を迎えたが、台湾の民主化実現に果たしたそれぞれの偉業は、永遠に語り継がれていくだろう。
「自救宣言」の物語には、日本人や在日台湾人も深く関わっている。あまりにもセンシティブな事件だけに、関係者は長年口を閉ざしてきたが、人生の終盤に差しかかった「日本のドン・キホーテ」たちは、私のインタビューに応じて、詳細を語ってくれた。貴重な証言に耳を傾けながら、1つひとつ明らかになる歴史の真実に、私は息をのみ、胸に熱い思いが込み上げるのを抑え切れなかった。
自由と人権を守る、ただそれだけのために、罪に問われたり、仕事を失ったりするかもしれない危険も覚悟して、1人の台湾人と運命をともにした日本人たちがいた。
彼らは彭明敏とともに国民党一党独裁体制打倒のために戦い、側面から台湾の民主化を支援したのである。これこそ真の「日台の絆」であり、日本と台湾の交流史に書き込まれるべき1ページに違いない。
それでは、これから、彭明敏の波瀾万丈の生きざまと、台湾が民主化を手にするまでの苦難の道のりを見ていこう。
【近藤伸二『彭明敏 蔣介石と闘った台湾人』(白水社)プロローグより】
【動画:彭明敏、長崎での原爆体験を語る。】
民主化以前、国民党一党独裁の権威体制に立ち向かって投獄・処刑された人は数知れない。
なかでも注目を集めてきたのが、台湾大学教授だった彭明敏が64年、二人の教え子とともに「台湾人民自救運動宣言」を作成・印刷して逮捕された事件である。
「自救宣言」は、台湾と中国は別々の存在だとする主張が現在の「一中一台論」の原点となっており、その先見性とともに、特赦で釈放された後、当局の厳重な監視をかいくぐって海外に脱出するという決死の行動も相まって、民主化運動のシンボルとなってきた。
以下に、『彭明敏 蔣介石と闘った台湾人』のハイライトと言うべき「命懸けの脱出計画」が語られる本文を紹介する。
飛行機で出国するには、パスポートが必要となる。タンベリーは、ドイツ統一前に西ドイツ人が合法的に東ドイツに行って出国を希望する東ドイツ人にパスポートを手渡し、紛失したとして大使館に届け、再発行してもらったというエピソードを雑誌で読んだことがあり、彭明敏にも話した。それを受け、彭明敏は、横堀洋一との面会でもヒントを得た、日本のパスポート所持者になりすます方法に賭けることにした。
1969年2月、彭明敏の使者である牧師仲間の若い米国人が日本を訪れ、東京で横堀と宗像隆幸、台湾青年独立連盟の中核メンバーだった台湾人の黄昭堂(ペンネーム・黄有仁、後の台湾独立建国聯盟主席)の3人と会った。
使者は、彭明敏に再逮捕や「抹殺」の危険性が高まっていることを伝え、3人に協力を要請した。宗像が「わかりました。引き受けましょう」と即座に答えると、使者は横堀と宗像宛の彭明敏の手紙を手渡した。
その手紙には、次のような脱出計画が記されていた。
一、彭明敏が、変装した顔写真を撮って、日本に送る。宗像らは、彭明敏の体型(身長約175センチ、体重約70キロ)に近い日本人Aを見つけ、写真に似た変装をさせる。
二、Aは日本で、彭明敏が送った写真を使ったパスポートと、出国先や経由地のビザを取得する。
三、Aは台湾を訪れ、パスポートを彭明敏に渡し、彭明敏はそれを使って出国する。
四、彭明敏が安全に目的地に着いたことを確認した後、Aが台北の日本大使館にパスポート紛失届けを出す。
五、国民党政権は誰かがAのパスポートを使って不法出国したことに気づき、Aを詰問するが、Aはあくまで紛失したと言い張り、日本に送還される。
手紙に書かれた計画を検討した宗像隆幸は、彭明敏に似た体型の人物を探し出して変装させる方法は現実的ではないと感じた。彭明敏は175センチと、この世代にしては背が高い。当時のパスポートには身長を記入する欄があり、あまり差があるとまずい。体型だけでなく、ある程度、顔の輪郭も似た人物でなければならないだろう。
実行役となる日本人Aは、絶対に信頼できる人間でなければならない。できることなら、気心が通じた仲間が望ましい。そんな限られた範囲の中から、彭明敏に近い体型で、顔の輪郭も似た人物を見つけ出すのはきわめて困難だ。さらに、写真に似せて変装させるなど、素人にできるはずがない。俳優のメーキャップをしているようなプロならできるかもしれないが、金で頼むような相手では、秘密が漏れる恐れがある。
そこで、柳文卿を脱出させるために考えていた、写真を貼り替える方法はどうかと思いついた。柳文卿の脱出計画は本人の意思もあって実現しなかったが、彭明敏は実行を決意している。
当時のパスポートは、今のように本人の顔写真が直接印画されているのではなく、紙の写真を貼り付けて、上から写真と台紙にまたがって凹凸の割印を押しているだけだった。割印さえ偽造できれば、彭明敏から送られてきた変装写真に割印を押し、日本人Aが取得したパスポートの写真を剝がして貼り替えればいい。出国時に、係員に写真貼り替えを見破られるリスクはあるものの、これなら実行可能に思えた。宗像が彭明敏に写真貼り替え方式を提案すると、彭明敏も了承した。
計画に必要な資金は、牧師仲間が米国で募金を集めるとともに、東京で病院を開設していた呉枝鐘医師が200万円を提供した。呉枝鐘は日本国籍を持っていたが、台湾青年独立連盟の運動を支援しており、「秘密工作のため」という黄昭堂らの依頼に、内容も聞かずに資金を用意した。
5月になって、彭明敏はアムネスティから、スウェーデン政府が正式に受け入れに同意したとの極秘連絡を受けた。これで行き先は確定した。あとは計画を予定どおり進めるだけだ。
【近藤伸二『彭明敏 蔣介石と闘った台湾人』(白水社)第三章 自由への逃避より】
そして彭明敏は、22年に及ぶ亡命生活ののちに、台湾に戻って初の総統選で当時の野党・民進党の公認候補になる。彭明敏の人生そのものが、台湾の民主化を象徴しているともいえることがわかる。
関係者の回顧録や関連資料のほか、当事者の証言から事件の顛末と亡命の一部始終を再現し、さらに李登輝との友情や2人の対比なども盛り込んで、彭明敏の人物像をくっきりと浮かび上がらせる。
台湾の民主化運動と知られざる日台交流史を、貴重な写真資料も豊富な本書で「目撃」していただきたい。
(白水社・阿部唯史)