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ティク・ナット・ハンの地球仏教 2 ――静かなる革命・雲とカタツムリと重機

記事:春秋社

1995年、日本リトリート(比叡山)、著者撮影
1995年、日本リトリート(比叡山)、著者撮影

はじめ

 1983年、サンフランシスコ瞑想センターに招かれた壮年のティク・ナット・ハン(以下、「タイ」と表記)を、出迎えたリチャード・ベイカー老師はこう形容した。「雲のようにとらわれなく、カタツムリのようにゆっくりと、機械のように重厚な行動の人――真の宗教的存在」。

 ベトナム戦争のさなか、仏教の無力さに挫折しかけたタイは、一瞬ではあるが、共産主義者になろうとした。この苦悩の中で、平和と独立を、暴力的手段によってではなく、非暴力によって実現する方法、すなわち、仏教の慈と悲の教えに立ち戻ることができたタイは、共産主義のおかげで、もういちど仏教に戻ることができた、と述懐している。苦しみを深く見つめて自己の内なる声に耳を傾けてきたタイの姿が、ここにある。

ブッダのことばは単純で美し

 タイは明言している。「ブッダの本来の教えは、言葉にとらわれないシンプルな教えです。もし教えが込み入って複雑であれば、それはブッダの教えではありません。あまりにしつこく、騒々しく、入り組んでわかりにくい声はブッダの声ではありません」。    

 仏教は長い歴史の中で膨大な経典群を形成し、人類の遺産として受け継がれてきたが、現在、ブッダの教えが人々の生活を支え導く手段となっているとは言いがたい。大乗仏教の誓願の円環を閉じるには、複雑化した仏教の言葉を観念から引き離し、誰にでもわかるシンプルな言葉で伝えなければならない。

 タイは意識的呼吸(息の気づき)、微笑み、歩く瞑想を中心にして、人々を至福の国-涅槃、神の国、浄土-に連れていく。経典の教えをガーター(偈・短詩)に書きかえ、メロディーをつけて歌にする。「般若心経」の「空」や華厳経の「縁起」思想をインタービーイング(相互共存)という造語で表現し、大乗仏教の真髄を誰にでもわかるように現代によみがえらせた。「拈華微笑(ねんげみしょう)」の逸話にあるように、ブッダは1250人の弟子たちの前に一輪の花を差し出して、あるがままの花のいのちを、一切の観念を排除して、そのままに感受することの中にいのちの喜びがあることを教えた。

 摩訶迦葉(まかかしょう)の微笑みが示すように、タイは、今、ここで、微笑んで生きることを体験することこそが、自由と解放への道であるという。ブッダ以来、タイほどにブッダの教えをやさしく解き明かし、平易な生活のことばで平和への道を伝えてきた禅師がいるだろうか。

 幸福への道は「ブリーズ&スマイル!」。ブッダの呼吸瞑想法「アーナー・パーナ・サティ・スッタ」(入出息呼吸瞑想経)を心の全体性を回復する瞑想手段として現代によみがえらせ、このマインドフルネス瞑想を癒しと変容の道具とした。ブッダの教えをもう一度、人々の心に届くシンプルなことばで語り継ぐことが、タイの半世紀あゆみであった。

 「過去を思って悩むなかれ、過去はもはや過ぎ去ったもの。未来を悩むなかれ、未来は未だ来らぬもの。あなたの前には生きるべき一瞬があるのみ。それが現在の瞬間だ。今この瞬間に戻り、この瞬間を深く生きよ。そうすれば解き放たれるであろう」

人生との契り――あなたは本当に生きていますか

 タイの教えの中心となるプラクティスは「マインドフルネス」とよばれるエネルギーを育てる練修だ。マインドフルネスとは、現在の瞬間に戻り、今ここで起こっていることを知覚する能力で、ブッダはこの力を正念(心と体を一つにして今ここに止まる力)とよばれた。マインドフルネスが働いていたら、自分を育て癒すだけでなく、周りの人々の傷を癒して変容する力が生まれる。

 煌々と輝く満月を見ても、マインドフルネスが働いていなければ、あなたが本当にここにいなければ、あなたにとって満月は存在せず、すべてはゆめ幻となる。あなたと月との出会い、あなたと桜との契りは、今この時にしか起こらないからだ。マインドフルネスとは、真剣に自分の人生と契りを結ぶことで、観念や思いからではなく、「なま」の「あなた」を生きること。あなた自身のいのちをほんとうに生きることを可能にするのがマインドフルネスだ。

 マインドフルネスは、不快な感情を喜びや感謝に変えて、幸福のエネルギーを育てる。マインドフルネスの練修とは、真にいのちと出会うために、自分自身を現在のこの瞬間に連れもどすことといえるだろう。

一枚の紙に雲を見る――人生はかくれん

 「もしあなたが詩人なら、この紙の上に雲が浮かんでいるのが、はっきりと見えることでしょう。雲がなければ雨は降りません。雨が降らなければ、木は育ちません。そして木がなければ紙はできないのですから、この紙がこうしてここにあるためには、雲はなくてはならないものなのです。もしここに雲がなかったら、ここにこの紙は存在しません。それで雲と紙はインタービー(相互共存)しているといえるのです」。

  一枚の紙の中には、森羅万象、あらゆるものが入っている。この紙を見る私たち自身の意識も、時間、空間、地球、太陽の光や熱までも、この一枚の紙の中に共存している。一枚の紙がここにあるのは、他のあらゆるものがここにあるからだ。

 「ここにある」とは「ともにある」こと。タイは華厳経の縁起思想(相即相入)をこのように説明する。この世のリアリティを深く見つめると、バラとゴミ(清浄と不浄)、マニラの裕福な少女と若い売春婦(豊かさと貧困)はインタービーしている。バラがなければゴミはなく、ゴミがなければバラはない。お互いがそれぞれを必要としている。インタービーイングの眼で見て初めて、売春婦の少女を底なしの苦しみから解放することができ、本当の意味で少女を救う一歩を踏み出すことができる。ここから慈(与楽)と悲(抜苦)の具体的な行動が生まれるのだ。

 命あるものの生と死についても同じだ。観念を超えて深く見る眼をもてば、一片の雲に誕生がないように、雲は死んで無になることはできない。雲の本質には生もなく死もない。同様に、私もあなたも、すべてのものは不生不死であり、あるのは新しい顕現(別の形での表れ)のみということになる。何ものも無から有になることはできないのだから。人生はかくれんぼ。消えたと思えば、また現れる。鬼ごっこに興じる子どものように。

 さまよう心を体に戻して、ありのままの現実を深く見つめるならば(マインドフルネスと集中)、きっとあなたにもこの一枚の紙の中に雲が見えるだろう(洞察・智慧)。タイはユーモアに溢れている。お茶を注ぎながら、「今、私はマインドフルにこのコップに雲を注いでいますよ。あなたもマインドフルネスの練修をしたら、このお茶の中に雲が見えるでしょう」。

おわり

 ティク・ナット・ハンの仏教による平和の実践はアート・オブ・マインドフル・リビングと総括される。個人の内なる平和は個人から家族へ、家族から社会へ、そしてついに全世界へと広がっていく。世界の平和は個人の平和とインタービーしている。生涯行動の人であるタイは、「ただ、平和に、ここに、在る」というブッダの教えを先導する自由と解放の静かなる革命者といえるだろう。

 ゆっくりと呼吸し、歩き、微笑み、坐り、歌い、食べ、分かちあい、深く聞き、果てしない沈黙の声を楽しむ人-雲のように軽やかに(軽安)、カタツムリのようにゆっくりと(マインドフルネス)、重機のようにしっかりと(荘厳)。   

1999年、高旻寺(中国)にて (後列中央がティク・ナット・ハン師、前列左端が筆者)
1999年、高旻寺(中国)にて (後列中央がティク・ナット・ハン師、前列左端が筆者)

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