唯識という、古の認識論・自由論を、俳句で学ぶという必然 ――「心の時代」の道しるべ
記事:春秋社
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「心の時代」と言われて久しい現代。だが、この言葉が使われ始めた頃から今日まで、その意味するところ、強調するところは、さまざまであろう。
当初、そこには「これからは物ではなく心だ」という時代のメッセージがあった。
そしてやがて、目まぐるしいほどの情報社会を生きる私たちこそは「心の時代」を生きている、と言われるようにもなった。数多の情報に対して、自ずと為される取捨選択、また受容の可能性と限界という意味で、その人の世界とは、まさしくその人の「心」によって構築されているわけである。
また昨今では、そうした「心」の多様性について、より目が向けられるようになってきている。「スタンダード」の矛盾や脆さに直面する私たちは、「心」がいかに複雑な〈世界〉との通路であり、また何より、おのおの異なるものであるかという現実に、今あらためて、切に向き合わざるをえないのだから。様々な分野での研究は進み、「ユニバーサル」であるところのデザインも、日毎に更新されている。そうしてさらに、例えばユクスキュルの「環世界」という概念にも示されるように、多様性の論理は必然、人間という枠そのものをも揺るがしていく。生きとし生けるものそれぞれの〈世界〉が重なり合ってある現実に、今一度驚きをもって臨む、私たちはそんな「心の時代」を迎えているのかもしれない。
さて、衆生(しゅじょう)すなわち「いのちあるものたち」は皆、それぞれの世界を描いている。そう言い切るのは、古来の仏教であり、唯識の思想である。
私たちは日常、「同じものをみている」とか「みているものは同じだ」なぞと簡単に言ってのけますが、一人ひとりの対象それ自体がすでに、時に微妙に・時に大きく相異しているわけです。与謝蕪村の句に「田毎(たごと)の月」という語がありますが、段々畑に耕作された一枚一枚の水田の田面こそ、このさい、他ならぬ私たち一人ひとりの心でしょう。(本書23頁)
「人みな個性的な存在」とみる立場をとる、千五百年来の教え。いったいそこには、どのような知恵が湛えられているのだろうか。
多様性の豊かさ――しかし裏を返せば、それは自我同士の対立する世界でもある。底の尽きない自己愛が、ふと顔を覗かせる。どうしようもなく、私は私を恃(たの)む存在であるという現実を、唯識は深層心の一つ目、「末那識(まなしき)」において説き、シンプルにこの身に突き付けるのだ。
そして、またおそろしいのは、その一層奥にある「阿頼耶識(あらやしき)」である。そこにはその者のこれまでの行いが「種子(しゅうじ)」として全てプールされるというのである。しかもその「行い」とは、姿かたちを取った言動のみならず、心の内に生じた想念すら含むという。それら過去の全ての蓄積でもって、その者の〈世界〉ができあがっている、というまことに厳しい洞察を、唯識は説くのである。
しかし、そんな厳しい世界の構造に、もし身の毛もよだつような思いがしたとしても、絶望することはない。というのも、そうした深層心よりも表立ってはたらく表面心――「前五識」(いわゆる五感覚、すなわち視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に当たる、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と、「第六意識」(時空の制限を超えた認識や思考を可能とする、いわゆる意識)――のうち、特に第六意識については、意識的な変革の余地が残されているからだ。そして本書では、俳句鑑賞を通じて唯識を学ぶ、という仕掛けにおいて、著者はそれら「表面心」のあり方こそを、どこまでも丁寧に眼差しているのである。
時に難解と評され、また実際に厳しい自己認識を突き付ける唯識の思想は、ともすればおそろしく厳格な話に聞こえるのであるが、本書においてその思想は、一貫して、どこかあたたかみを帯びている。著者の軽妙な語り口がそう感じさせるのであり、また、俳句をはじめとする短詩型文学そのものの深みと滑稽さにも由来して、そうなのだろう。
本書において「唯識」は、一旦はその厳格さを脇に置いて、どこまでも親しみやすい世界を通じて語られる。生活の目線からふと、あるいは深い孤独の境地から湧き出た、句作者の心=〈世界〉に触れながら、読者の自由な心を基に〈世界〉はまた生まれ、そうこうしているうちに、唯識の考え方に自然と馴染んでいる、そんな「唯識 超入門」なのである。
個別の生を突き詰めかつ大河の源流にも触れる大きな思想、唯識仏教を、芸術鑑賞を媒介に学ぶとは、なんとも豊かな体験である。その滋味はきっと、私の〈世界〉を深く耕してくれるだろう。