芥川賞作家・諏訪哲史さんの推薦! 『禅と浪漫の哲学者・前田利鎌』
記事:白水社
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かつて、一個の若く清冽な魂、自由と悟達を渇望する、短くも狂おしい生があった。
明治・大正・昭和を駆け抜け、わずか32歳で夭折した宗教哲学の異才、前田 利鎌 の生きざまを知る者は、当世それほど多くはない。僕は大学1年の折、中国哲学の教授に薦められ、利鎌の主著『宗教的人間』を図書館で借りて読んだ。今から30年以上も前のことである。若い利鎌の才気、その神をも怖れぬ自在な叙述について、教授は、「鋭利な鎌とはよくぞ名付けた。まったく斬れるわ斬れるわ。しかし、斬れすぎる刃物は何事につけ剣呑なものだ」と肩をすくめ嘯いてみせた。
大学の1年次といえば僕は18歳、奇しくもショーペンハウアーと禅とに深く傾倒していた只中であった。母が臨済宗妙心寺派の寺の娘だった縁もあり、高校時代まで僕は半ば真剣に、こんな業の深い野卑な自分でも仏道に帰依すべきか、俗世を捨てるなど果たして欲の強い自分に可能か否かと考えていた。
当時は厭世主義と自殺思想が僕にとっては切実な問題であった。邪道は承知でショーペンハウアーをこの観点から読み、ヨブ記もシュティルナーもシェストフもシオランまでも渉猟してなお飽かず、一向得心がいかなかった。その後、三島由紀夫の『豊饒の海・第三部 暁の寺』で展開される古代希臘のヘラクレイトス哲学や、仏教的相対主義の壮大な体系「唯識」の理論、ニーチェの円環的な永劫回帰思想にも触発され、ふたたび禅哲学に傾いた。
先に前田利鎌を異才と呼んだが、実のところは鬼才であり、彼はファウスト=メフィストフェレス的な、個の闇雲な無辺大の放擲とでもいった、死をも厭わぬ真理求道の徒で、苛烈な自己打擲に身を挺する禅者であった。
利鎌の『宗教的人間』には、「臨済・荘子」の2章の他、後半にはゲーテを先駆とするドイツロマン派の若々しい疾風怒濤の文学的影響が散見される。周知のように『ファウスト』全編では、自己の欲望と力の全能化、その宿業の果ての悲劇的達観が思索されており、また今では忘れ去られたロシアの作家、僕が偏愛するアルツィバーシェフの、色欲と自殺を讃美する極めて虚無的な危険小説『サーニン』にまで、その数頁が割かれている。
ことほど左様、前田利鎌の哲学はひとえに青年の生の哲学であり、18歳の哲学徒であった初心な僕は、てきめんに彼のその剛毅果断な気性、また放胆な人生観に魅せられた。
本書の著者安住恭子は、100年も時代を隔した、ほぼ忘却せられ無名に帰そうとしている古人の生を掬い上げ、現代のわれわれの在り方に照らして、それを再考しようとする作家である。和辻哲郎文化賞を受賞した世評高き前著『『草枕』の那美と辛亥革命』においては、夏目漱石と、『草枕』のヒロインのモデルになった熊本の女性前田卓との、淡い恋愛感情にも似た、時代的・思想的連帯にまなざしを向けた。
続く本書では、この卓の母違いの弟で、30以上も歳の離れた若き宗教哲学者前田利鎌と、平塚らいてうの姉孝子との、世を忍ぶ恋愛を中心に、大正期日本の社会・宗教・思想の時代的な趨勢を語ろうとする。漱石から卓、利鎌、孝子、らいてうと、この2冊において、九州から東京、当時のアジア情勢までをも広く視界にとらえ、明治大正期の日本の思想的地図を描こうと腐心するのである。
前著の主要人物である漱石と卓が同じ1867年生まれ。同年には他に南方熊楠や幸田露伴がある。西田幾多郎と鈴木大拙とが3つ下の1870年生まれ。これらの世代の知の巨人たちが近代日本の思想的な礎を築いた。
この時代から約30年後、前田利鎌が1898年に生まれる。遅れてきた青年である。
明治大正期の思想潮流には、西洋から移入された世紀末的神秘思想や心理主義・象徴主義的な非合理の超越性が頑なに破られず、長きに渡り根底的に彼らの哲学を支え続けたきらいがある。ブラヴァツキー夫人の神智学やシュタイナーの人智学が欧米の思想・文化に絶大な影響を与え、そうした土壌から西田や大拙が18世紀のスウェーデンボルグの霊的な照応理論、華厳的・禅的な一即他・他即一の主客未分の仏教的宇宙観を思想背景に据え、同時代のパースやジェイムズの哲学を科学的論拠として援用した時代であった。
利鎌の禅への挺身も、この霊性観の流れを踏まえ初めて説得力を持つ。本書に言及される悟りの境地「見性」は容易に一義に回収されえぬ語で、自我をことごとく殺し滅する虚無の枯山水で仏性と邂逅するか、自我を時空的極大へ拡張することで主客を合一し曼荼羅的仏界にまみえるか、そのいずれも可か、これら止揚しがたい正反の矛盾を乗り越える術こそ、信とも学とも異なる禅であった。
西田や大拙よりずっと若い利鎌の禅は、この点ひたすら行為実践を重んじるが、漱石譲りの個人主義というべきか、判断停止的な滅私(後に日本が軍国化に応用する奉国的禁欲主義)による無の会得以上に、自我、個性、私性の開放の果てに、その限界を究めた則天去私の境地で、他ならぬ自己そのもののうちに仏性を生き・生成するスピノザ的な汎神論、ニーチェ的な超越の生を標榜する、すぐれて実存的な哲学であった。
この点、親友であった松岡譲が真宗的な他力の思想の信徒であったのとは異なり、利鎌はあくまでも禅的自力の実践者、あえて悪くいえば小乗的部派的な独覚論に陥り兼ねぬ、あまりに孤高にすぎるストイックな哲学者であったというべきである。が、それでも大乗的な衆生救済を離れきらぬ彼の一面をも本書では見ることができる。母違いの姉であり、後に養子縁組する前田卓の関わった東亜の革命運動、また平塚らいてうの女権的社会思想などを、消極的ながらも理解し認めようとした寛容な一面である。ただ、平塚姉妹がともに支持し参入した大本教ほか、新宗教の筆先崇拝など見神的信仰への直接没入にだけは、近代の子である利鎌は慎重に距離を置いた。
利鎌は漱石の門に最年少で入り、学び、書き、淪落の恋を識り、座禅に我を忘れ、生に身を焦がし、燃え盛りながら死んでいった。
孝子とらいてうも同様だ。大正の爛熟したデカダンスの徒花というなかれ。3人は旧弊な社会風紀や硬直した倫理、常識に抗った。自らに由って立つ近代人の肖像、自由と解放、照応と合一、天才と超人、各々がそれらを希求した。
らいてうは有名な『青鞜』発刊の辞「元始、女性は太陽であつた」に書いている。〈私共は我がうちなる潜める天才の為めに我を犠牲にせねばならぬ。所謂無我にならねばならぬ。(無我とは自己拡大の極致である。)〉と。
無我と称する自己拡大の極致、そこにこそ見性があり、本来衆生に等しく内在する仏性がある。これは利鎌の思考と頗る似ている。
平塚孝子は戦後、名を恭子と改めた。といって、本書の著者安住恭子と孝子が似ていると書くつもりはない。いや、しかし正確にいうなら、著者は孝子ともらいてうとも少しずつ似ている。慎ましく、かつ学究的である面が。でも、著者が最も似ているのは、やはりどうしても、利鎌の姉で母代わりの前田卓である。寛容さ、根気、情熱。そこが似ている。
利鎌は孝子を愛したが、異腹の姉である卓をも幼時から憧れ、愛したに違いない。そこにもまた成就の叶わぬ、忍ばれる潜在の恋がある。本書を通読し、利鎌に思いを馳せる今の僕には、そう想われてならないのである。
(すわてつし・作家)