大澤真幸と木村草太が語る、五輪へのご発言で再浮上した「天皇とは何か」という問題
記事:晶文社
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大澤 客観的にみると、日本人は天皇制を維持し、基本的には必要としている状態です。戦後のある時期まで、リベラルぽい人は天皇制に反対しているのが普通だったのですが、今ではほとんどの層に支持されている。それならば、天皇制はなんのためにあるのか。どうして必要なのか。どう説明したらいいのでしょうか? 天皇という制度は、わけのわからないスパイスをかけているという感じに見えます。たとえば、法は議会で決めたあと、天皇が公布するというかたちをとる。民主的に選ばれた代表者の集まりである議会が決めたところで、「法」という料理はできあがっているのに、そこに、天皇というスパイスをふりかけているような状況です。スパイス抜きで食べたらよいのに、と思いますが、そのスパイスが不可欠らしい。で、そのスパイスは万世一系の秘伝のスパイスです(笑)。
木村 国民主権に絶対の自信があれば、天皇は不要、余計な味つけです。天皇制支持には、二つの系統があると思います。一つは、天皇に伝統とカリスマを感じる「天皇教」の信者的なもの。もう一つは、議会政治への根本的な不信感によるもの。議会政治一本だと危ないから、サブを持っておきたい。この系統は左派的な考えとの親和性もある。こうして、右から左まで揃って天皇制を支持できるわけです。
大澤 右は右で、左は左で支持出来る。
木村 論拠は全然違うんですよ。でも結論は一緒になる。
大澤 一般的に、「国民」というものには非常に強い平等志向があります。どこの国にも、実際には差別や格差はありますが、公式には、国民は水平的な同胞である、ということになっている。カースト制度とか身分制度は、近代的な「国民」とソリが合いません。前近代からの継続で、特別な人が王であったり貴族であったりすると、国民との間に軋みをもたらす。折り合いをつけるために、なぜ王がいるのか、どうして誰かが貴族なのかを納得させるために、いろいろ言い訳をしないといけないのです。でも日本の天皇制には、そんな言い訳はいりません。国民が喜んでいるし、天皇や皇室にポジティブな感情がある。むしろ、われわれが国民であるためにこそ、天皇が必要だ、という構造になっています。特に、戦前はあまりにもこの条件が強すぎました。天皇は本当は、「国民」に対してスパイスに過ぎないんだけど、かつてはスパイスこそが主食だった。
木村 天皇支持の根拠を検証していくと、消極的なものしか出てこないところがあります。憲法学者の中でも、「象徴的行為をどんどんやろう」というのはかなり極端な立場で、たいてい「やってもしかたない」ほどの言及にとどめます。
大澤 実際問題として、平成の天皇は――そしておそらく現天皇も――かなりリベラルな方で、民主主義を支持し、憲法9条を支持している感じがある。天皇ははっきりと明言しないけれども、その「象徴的行為」には、明らかに「リベラル」を支持する政治的なインプリケーションを伴っている。しかも、これを天皇の政治関与とみなして批判する日本人は、あまりいない。むしろぜひともやっていただきたいと思っている。
やはり、天皇にはある種の象徴的行為を期待している。それではどんな行為を期待しているのか。たとえば、被災地に行く。社会的弱者や被害者に対して共感し同情する。慰霊の旅のような、国のために死んでいった人を含めた、慰霊や鎮魂。そこが共感されている一番の理由になっていると思います。
木村 代表と象徴の違いのひとつに、代表はクリエイティブな作業、象徴はそうではないという点があります。たとえば、国民の代表たちは、政策をきめて法律をつくります。これは、予めわかっている答えをなぞる作業ではなく、国民の反応や社会情勢を勘案しながら、創造してゆく作業でしょう。
これに対し、象徴は、あらかじめ定まった答えの通りにふるまえないといけない。たとえば、いくら「鳩は平和の象徴です」と言っても、ケンカしている鳩は平和の象徴にはふさわしくない。天皇も同様で、国民一般が「まぁそうだよね」と思うところを象徴している限りにおいてしか、天皇は象徴として機能出来ない。いわゆるネトウヨの中には、天皇が激戦地を巡ったり、戦争の反省を口にしたりすると、「天皇は反日」と言い出す人もいる。そういう人がもし大多数になったら、天皇の慰霊の旅は象徴的行為ではなくなるでしょう。
大澤 その通りですね。代表は、なにかを創造し、決定しなければならない。たとえば国民の中には原発を維持したい人もいればやめたい人もいる。代表は、どっちか決めないといけない。原発はやめたと決めたとして、半分くらいの人は反対なんだけれども、代表が決めたことだから従おうとなる。
木村 天皇には、それは出来ない。
大澤 コンセンサスがすでにあることが前提ですよね。3・11の被害者がいたときに、日本人にその人たちを助けてあげたいとか同情したりする気持ちがあることを前提として、天皇が被災地を訪れる。もし「被害者は自業自得だ」なんて思う人が日本人に沢山いるならば、天皇の被災地訪問は政治的なものになる。
木村 むかし米長邦雄さんによる「園遊会事件」というのがありました。米長さんは名人位も獲得したことのあるプロ棋士で、将棋連盟会長も経験しています。当時、東京都教育委員会委員を務めていた米長さんは、園遊会の席で天皇陛下に「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と言いました。これに対して、天皇は「やはり強制になるということではないことが望ましい」と答えた。これは、憲法学の視点から見ると、バランスのとれた回答です。しかし、この事件の後、学校現場がどうなったかといえば、君が代を歌わなかった教員を処分するなど、強硬姿勢が続いた。天皇陛下の発言は、教育現場で力を発揮することはなかった。つまり、教育現場において君が代の扱いについてコンセンサスがなく、天皇陛下の発言は象徴としては受け入れられなかったということだと、私は理解しています。
ただ米長さんの為人(ひととなり)に詳しいプロ棋士にこの園遊会事件について聞くと、「あれは冗談でしょ」という反応になる。目の前の人を喜ばせたくて、軽口をたたいただけだろうと。天皇は冗談に答えただけですから、象徴として機能しなかったとしても、コンセンサスの有無とは関係なかったのかもしれません。
そういう意味で、天皇のやること全てが象徴になるわけではない。憲法第1条は規範か事実なのかという問いがありましたが、コンセンサスの事実がある程度ないと、象徴としてふるまえないという点は、強調しておいた方が良いでしょう。
大澤 君が代問題のようなはっきりと意見が分かれている問題については、天皇が言っても効果はないかもしれない。でも大半の人が「どっちかな、微妙だな」と感じている問題は、天皇が態度をはっきりさせることで、国民レベルの意思がドッと動くことがある。ネトウヨがいくら増えても、総理大臣が談話を出しても、全然そういうふうになりませんが、天皇陛下がやれば「基本はこっちの線だよね」と言える。
木村 コンセンサスがあらかじめある場合だけでなく、多くの人がどっちつかずの状態にある場合にも、機能するんですね。勢力がはっきり二分している状態では機能しないが、大半が合意しているケースないし、大半がどっちでもいい場合は、天皇の象徴としての行為が国民のコンセンサスの決定打となる。
大澤 そう考えると、我が国において天皇制は、結果的に、しかも意図せざるかたちで、デモクラシーを支える最後の砦のようなものになっています。今、世界を見渡すと、デモクラシーは危機の中にある。しかし、日本は、天皇制があるおかげで、目下、世界の多くの国々を苦しめている共通のデモクラシーの危機から免れているのです。
(大澤真幸・木村草太『むずかしい天皇制』第1章「現代における天皇制の諸問題――象徴、人権、正統性」より)