文学を切り口に「生きている科学」を伝える地学参考書 『宮沢賢治と学ぶ宇宙と地球の科学〈全5巻〉』
記事:創元社
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そもそも、自らの鬼門である理科の一科目の参考書を、よりにもよって5巻セットで出そうと思ったのは、『地学教室』を作るときに、内容を大幅にカットしたことが心残りだったからである。『地学教室』はオールカラーで図解中心にするという方針だったので、分量は160ページが限界であった。そこに賢治作品の引用文と、高校の「地学基礎」科目で教えられる主な5項目(宇宙、地球内部、岩石、地史、気象)の学習内容を詰め込むとなると、各章で収録できる量はさほど多くない。そのため柴山元彦先生には、「とりあえず地学基礎はここを抑えておけばOK」という項目に厳選して原稿を作っていただいた。しかしその原稿を私(理科が苦手な読者代表)でも理解できるレベルにかみくだき、そのために説明を増やし、なおかつ見苦しくないレイアウトで見せようと思うと、項目をさらに絞らざるをえなかったのである。
結果として『宮沢賢治の地学教室』は、読者に賢治作品の奥深さや地学の面白さに気づいてもらうという意味でシリーズ先発としての役割は十分に果たしたと思うが、たとえばこれ一冊で現役高校生が地学のテストに対応できるかというとそうではなかった。知的好奇心を満たし学ぶ楽しみを知ることは大切であるが、現役の学生にとっては目の前の敵(定期テストや受験)を倒すことが重要で、しかもそれをできるだけ省コストでやり遂げたいという思いは、自身の経験からも痛いほどわかっていた。それに、『地学教室』では賢治作品の掲載数も少なく、一つ一つの引用量も最低限であった。やむをえず割愛したもっと多くの作品を紹介して、地学者としての賢治の魅力も知ってもらいたい…。
そうした思いから、教科書に書いている内容をほぼ網羅しつつ、ひとつひとつの項目を丁寧に解説し、賢治作品の引用も充実させた詳細版の構想は、『地学教室』を刊行した時から持っていた。
賢治の地学シリーズは特殊な企画で、第一稿に編集者がかなり手を加える。前述したように文量を調節し、図とのバランスを見、文章や図ができるだけ平易な表現であるか、学習項目が理解しやすい順序になっているかを吟味し、引用や会話パートのタイミングが適切になるよう調整する。同時に、図版クレジットの確認、図版の新規作成や使用料にかかるお金の算段、全体のページ数や台割などにも目星をつけておく必要がある。これらを勘案した編集案を作成したのち、もう一度著者に戻し、検討・改稿していただくのだ。
著者にとっても編集者にとっても非常に手間のかかる工程だが、「文系のための地学」を標榜する賢治シリーズには不可欠なステップである。もともと私は他の企画でも著者の原稿に “手出し口出し”するタイプで(もちろん最終的な判断は著者に委ねる)、『地学教室』とその続編である『地学実習』も経験したため、こうした作業には慣れているつもりだった。しかし始めてすぐに思い出したのは、『地学教室』で割愛した項目には、超入門編に入れるには難しすぎるから、と外したものがたくさんあったということである。今回は地学基礎の全項目網羅を目指す詳細版、難しいからといって逃げられない。というか、難しいことこそこの本でやさしく解説すべきで、そのためにはまず私(理科の苦手な読者代表)が理解できねばならない。
コロナ第一波が猛威を振るっていた頃、私はひとり自宅にひきこもり、教科書や参考書と首っ引きで勉強し、読者がつまずきやすそうなところ、頭が混乱しそうなところを嚙み砕いては編者・著者に確認してもらい、誤りなくわかりやすい表現の落としどころを二人三脚、三人四脚で探っていった。
『地学教室』で直面したのに忘れていた問題のもう一つは、項目によっては引用に適した作品が見つからないということである。実は、宮沢賢治が生きた時代は、地学に関連するあらゆる分野で新たな発見が続いたり、妥当な理論が打ち立てられたりして、地学的現象のメカニズムの解明が進み始めたころだった。作品を読めば、賢治が教師になってからも非常に勉強熱心で、当時のほぼ最新の科学知識を取り込んでいたことがよくわかるが、たとえば地球内部の構造やプレート・プルームテクトニクス、生物の化石が出るより古い地質時代の話などは、賢治の晩年から死後に研究が進んだのである。したがってこれらのテーマに関しては、賢治は作品でほとんど触れていない。内陸生まれの賢治にはなじみが薄かったのであろう海洋の話もほとんどないし、「地震」など書いていてもよさそうなのにあまり作品に登場しないテーマもある。『地学教室』の時は、比較的引用の多い章で少ない章を挟み、会話パートを増やすことで説明ばかりが続かないようにしたのだが、その各章を独立させた詳細版ではそうはいかない。著者と一緒にもう一度血眼になって参考になりそうな作品やエピソードを探し、時には賢治と同時代の作家や研究者まで参照した。
あるいは引用できる作品があったとしても、古い理論やデータ、名称に基づく表現である場合もあった。「風野又三郎」の大気大循環や、「イギリス海岸」の北上川周辺の地質年代などがそれだ。また、賢治文学の魅力の一つでもあるのだが、一見科学に基づいているようで実は大幅にファンタジーを混ぜ込んでいる表現もある。こうした部分は、引用するにしても、メインの解説や会話パートなどでフォローした。
校了の近い他の企画の合間を縫ってこれらの課題をクリアしつつ改稿を重ね、全巻の最終原稿を完成させるまでには結局、半年以上の時間を要した。この段階ですでに予定を大幅超過していたが、その後も図版の作成から組版、校正と最後まで気の抜けない作業が続き、二度にわたる刊行延期を経て、ようやく完成に至ったのである。
5巻で地学基礎のほぼ全項目を網羅する、しかし賢治との関連付けが難しい箇所をどうするか――。この難問に対処するのは並大抵のことではなかったが、なぜ賢治が描かなかったのか、なぜ現代の知識と齟齬があるのかに注目せざるを得なかったおかげで、本書は地学そのものを解説するだけでなく、それらの知識がいつ頃、誰によって、どのように得られてきたのかという科学史を紐解くものにもなったと思う。
地学の関連分野はこの100年の間にすさまじいスピードで研究が進んできたが、それは紀元前から脈々と続いてきた地道な観察や探究、技術進歩の積み重ねの結果である。そして当然ながら現在わかっている知識がすべてではなく、絶対的に正確なわけでもない。本書もできるだけ間違いがないように作っているが、100年後、200年後にはきっとすっかり古い情報になっていることだろう。
賢治の心象スケッチ『春と修羅』の序文にこのような一節がある。
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるように
そしてただ共通に感ずるだけであるように
記録や歴史 あるいは地史というものも
それのいろいろの論料〔データ〕といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじているのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相当のちがった地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらい前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもい
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
学校で教科書を開き、諾々と勉強していると、そこで教えられるのは宇宙が誕生した時から厳然と存在する真理で、科学で確実に解明された情報であるかのように感じられる。私自身も数学や理科を、複雑な数字と公式と感情を排した理論で構築された冷たい学問で、問題から導き出される答えは一つしかないと思い込んでいた。しかし実際には、科学の世界ははるかに人間的で、変化や選択肢に溢れていて、「どうせ一生使わないし」と無視するには惜しいおもしろさが隠れている。
地学を理解することは簡単ではないし、どうしたって苦手科目の勉強は億劫なものだが、この5巻本がその難しさ、面倒くささを少しでも緩和するとともに、「青空いっぱいの無色な孔雀」や「透明な人類の巨大な足跡」を空想できるような地学の可能性を読者に伝えられることを願っている。
(創元社編集局 小野紗也香)