雑草たちの生き方に学ぼう ボタニカルアートの魅力
記事:幻戯書房
記事:幻戯書房
私は芸大時代、芸術学科で美学・美術史を専攻していました。2年生までは実技科目があり、日本画を取っていました。描くことが好きだったので、3年生になってからも時間割を工夫し、日本画教室に度々参加していました。
当時、自主制作のテーマを考えながら散歩していた時、眼に飛び込んできたのは、川沿いに勢いよく生息する雑草達でした。真夏の日差しをものともせずに、生き生き育ち、その沸き上がるようなエネルギーを肌で感じた瞬間でした。
そのころはまだ草の名前も知りませんでしたが、今思い返すと、確かクサマオの変種「ナンバンカラムシ」の群落でした。それ以来、私は絵のテーマとして雑草以外に心惹かれることはほとんどありませんでした。卒業して地元に中学校の美術科教師として赴任し、理科の教師をしていた亡き主人と出会いました。結婚してから、様々な雑草を観察し名前を教えてもらう日々の中で、雑草の花や形態の美しさ、実をつける仕組みの知恵や、したたかなまでの生き様を知るにつけ、感心させられどおしで、ますます雑草が好きになりました。
亡き主人からボタニカルアートという分野があることを知らされ、すっかり嵌(はま)ってしまって以来、描き続けて今年で34年目になります。ボタニカルアートは、画材として水彩絵の具を使うので、雑草の繊細さを表現するにも最も適しています。余計なことを一切考えず、ただ雑草と向き合い集中して描く。この時間は私にとって最も大切で幸せな時間です。
ところで、人間は、周りのあらゆるものを見る時、しっかりは見ていないものです。植物についても、何となく綺麗、美しい、香りがいいなどはわかっても表層の部分を感じたにすぎないことが多いです。しかし、植物を描くとなると、鑑賞しているだけとは全く違ってきます。葉1枚でも描いてみると、あらためて気づくことの多さに驚くとともに自然の奥深さ素晴らしさを実感するのです。
ジョン・ラスキンは、「葉1枚を描く者は世界を描く」という言葉を残しています。植物画教室で、初めて来られた生徒さん達に好きな葉を選んで描いていただくのですが、「葉っぱをこんなに熱心に観察したのは初めてです。」「今まで何一つちゃんと見ていなかったとわかりました。」という感想が多く、私は大きく頷(うなづ)いて嬉しくなるのです。植物の奥深い世界に入り込む入口に立った人がまた一人増えたのですから。
すべての植物は自らの花を咲かせ、種(たね)を作ることにぶれません。この目的を果たすため、種は、いつ芽を出すのか、土の中でセンサーを働かせ、様々なことを感じながら、虎視眈々と狙っています。雑草は生えることで土を柔らかくしてくれたり、土の急激な乾燥を防いでくれたり、土の改良、浄化をしてくれ、小動物を育み、生態系の基礎となる存在です。こうしたことを知ったら雑草を蔑むなんてことはできなくなると思います。
例えば、オオバコは、道ばたのどこにでも見られますが、花は下方から咲き上がり、先に雌しべが熟します。雌しべが先に熟すことで、自家受粉を避け、他の様々な遺伝子を持つ子孫を残すようにしている仕組みです。実は熟すと横に裂け雨などで濡れると粘る種子となり、動物の足、人間の靴の裏、車のタイヤなどについてより遠くまで運ばれます。踏まれてかわいそうでなく、踏まれることを逆手にとって、目的を果たしているしたたかさに感心します。
また、イネ科の植物は、草食動物に対抗するため、成長点を株元に持ってくるよう進化しました。これなら上のほうをいくら食べられても株元から増やすことが出来ます。賢いです。
さて、当の雑草達は、人間達にどんな悪態をつかれようともどこ吹く風で、全く頓着せず、悠々と生き生きと育ち、花をつけ実を作り潔く枯れていく、すがすがしいばかりの生き様の見事さを見せてくれています。
「この画集は、雑草の見方に対する人々への啓蒙書だ。」と言ってくれた友人がいます。画集を鑑賞し、解説文を読んでいただくことで、人々の雑草に対する見方を今までより少しでも変化させることができ、雑草好きを一人でも増やすことができたら本望です。