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森の民プナンの日常を描き出す『マンガ人類学講義』は、なぜ「マンガ」なのか

記事:日本実業出版社

丸焼きにされたヒゲイノシシの頭を、顎を引っ張ってこじ開けるボルネオ島に住む狩猟民・プナン
丸焼きにされたヒゲイノシシの頭を、顎を引っ張ってこじ開けるボルネオ島に住む狩猟民・プナン

『マンガ人類学講義』p8より
『マンガ人類学講義』p8より

プナンの不思議な動物譚

 人類学者としての私のフィールドはボルネオ島です。この2年間は通うことができていませんが、最初に旅行で訪れたのは80年代の後半ですから、もう30年になりますね。

 このボルネオ島の熱帯雨林の森の中に住む狩猟民が、プナンです。人口にして約1万人ですが、私はそのうちの約500人のプナンの集団と一緒に狩猟をしたりしながら生活して、フィールドワークを行なってきました。

 プナンは、野生動物を単に「狩って食べる」対象としてだけ見ているのではありません。自分たちの生活と密接にかかわる存在として、日常的に動物について語り合っています。「フンコロガシはかつて金持ちの人間だった」など、私たちから見れば不思議な「動物譚」がたくさんあるんです。

 そのような、プナンを取り巻くありふれた日常と動物のイメージをビジュアルに描き出せば、私が体験したフィールドでの現実を、まざまざと喚起できるのではないか。また、「マンガ」というビジュアルによって、主に文字表現によって作られてきた民族誌に工夫を加えてみたい。

 そう考えたのが「人類学マンガ」構想の出発点でした。そしてこの構想の背景には、近年の文化人類学の革新があります。

プナンの子どもたちと犬は、何を語り合っているのだろうか?
プナンの子どもたちと犬は、何を語り合っているのだろうか?

「ありふれた日常」を描き出す

 文化人類学の基本は参与観察を含めたフィールドワークにあります。ひたすらそこにいて、人々のいろいろな話し声や行動を、そのど真ん中で没入しながら観察し、感じる、ということを行ないます。学問ですからそれを文字化してまとめるわけで、それが民族誌です。

 民族誌をはじめたのがポーランド生まれの人類学者、マリノフスキ(1884-1942)です。彼が20世紀初頭に行った、ニューギニアでのフィールドワークをもとにまとめられたのが『西太平洋の遠洋航海者』(講談社学術文庫 2010)で、この本が現代の文化人類学の記念すべき出発点だとされています。

 マリノフスキがこの本の中で重視したのが、フィールドにおける「実生活の不可量部分(imponderabilia)」でした。マリノフスキは次のように説明しています。

 「平日のありふれた出来事、身じたく、料理や食事の作法、村の焚火の回りでの社交生活や会話の調子、人々のあいだの強い敵意や友情、共感や嫌悪、個人的な虚栄と野心とが個人の行動に現れ、彼の周囲の人々にどのような気持ちの反応を与えるかという、微妙な、しかし、とりちがえのない現象──などのこまごまとしたことが、これに属する」(マリノフスキ 2010:56)

 つまり量ることができない、データ化できない実生活の姿です。文化人類学者がフィールドにおいて経験することそのものが非常に重要だと、マリノフスキは言うのです。

 彼は現地の言葉を習得して、人々の暮らしのど真ん中に長期にわたって滞在し、はじめてそのことに気づいた。彼以前の人類学者は通訳を雇い、数日間だけ村に行って通訳を通して話を聞き、研究するというスタイルが主流でした。

 ところが、この「実生活の不可量部分」を描き出すことは、その後の文化人類学には必ずしも継承されませんでした。どちらかというと社会構造に関することや人々の感じ方、考え方などの記述や分析に向かい、それは民族誌の中で限定的に扱われるに留まったのです。

ありふれたプナンの日常
ありふれたプナンの日常

自由闊達な文化人類学へ

 「実生活の不可量部分」は他方で、映像機器をフィールドに持ち込んで調査と記録を行なった「民族誌映画」に受け継がれました。ありふれた日常に接近するための方法論、理論は、映像と文化人類学の統合領域といえる「映像人類学」という研究ジャンルの中で着実に培われてきました。

 こうした映像人類学の流れに対して、文化人類学ではようやく近年になって「実生活の不可量部分」を再評価し、再検討し始めました。箭内匡さんの『イメージの人類学』(箭内2018)では文字に囚われない人類学の可能性を展望していますけれども、その中でも実生活の不可量部分の大切さを取り上げています。

 また、フィールドワークとは、人々「とともに」人間の生について学ぶことだと唱えて、フィールドでの文化人類学者の日常経験に光を当てたイギリスの社会人類学者、ティム・インゴルドの最近の理論的展開の中にも、それは現れています。

 このような文化人類学の革新の中にあって、マンガによってプナンのありふれた日常がもっとイメージされやすくなるのではないかと夢想し、そして、学問の制度に閉じるのではなく、より自由闊達に文化人類学を進めるために、マンガ家のMOSAと目指したのが、「人類学マンガ」だったわけです。

フンコロガシはかつて金持ちの人間だった。不正を働いたため、人間から転落し、今の姿になった。(『マンガ人類学講義』p8)
フンコロガシはかつて金持ちの人間だった。不正を働いたため、人間から転落し、今の姿になった。(『マンガ人類学講義』p8)

マルチスピーシーズ人類学

 ところで、2010年頃から「マルチスピーシーズ人類学」という新しい研究ジャンルが盛んに行われるようになってきました。

 その大きな特徴は、人間を含めた複数種(マルチスピーシーズ)の絡まり合いについて調査研究する点にあります。

 「人新世」という地球環境の危機を招いた「単一種である人間」から視点をずらし、人類学者の中には、「多種の共同体」に目を転じる人たちが出てきたのです。人間が人間として単独で成立しうるのではなく、多種間の関係性から人間が構成されるという視点に立てば、人間だけのことを語っていては得られるものが限られることに気づきます。

 「人間」を扱う人類学が、21世紀になって「人間的なるもの」を超えて研究を始動させたわけです。そうした従来の人類学を拡張していく視点が出てくると、文字表現による民族誌のみを重視してきた人類学それ自体が疑わしくなってきました。インゴルドはこう言っています。 

 「アートと同じで、人類学は、あるがままにものを描いて分析することだけに結びついている必要などない。それはまた実験的でもあり、思弁を許されている」(『人類学とは何か』インゴルド 2020:146)

 「実験」と「思弁」を含むインゴルド的な人類学の提唱に結びつきながら、アートとかパフォーマンス、さらにはマンガなどのメディアを付け加えながら、人類学が拡大されてきている、というのが現在の状況だと言えます。

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