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生の不可解さに応答する 人間と異種についての新たな視点 ジュンク堂書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

“誰しもこの世に存在する限り、他の生物の命を奪って生きるという逃れられない悪事に手を染めている。”(本文より)
“誰しもこの世に存在する限り、他の生物の命を奪って生きるという逃れられない悪事に手を染めている。”(本文より)

他の生物と食べ合うことから逃れられない生を肯定

 死ぬということはあまりにも意味が不明で、自分という存在が、今見ているこの世界もろとも消失することはそう簡単に理解できることではない。そして死への恐怖はそのまま生きていることの不可解さに直結している。死を意識した途端、この生は余りにも覚束ないものとなる。生きることを続けた先に特に何もないという事実は衝撃的である。

 そんなことを考えて絶望にも似た思いを抱きながら日々を過ごしていた。しかしその思考に打撃を与え、さらには変形させてくれるような一冊に出合った。『人類堆肥化計画』(著・東千茅、創元社)という奇妙な題名の本である。

 奈良県の里山に移り住み農耕生活を営む著者の東千茅氏は、生きながらにして堆肥となる「生前堆肥」を提唱する。東氏が里山生活に向かったのは深い悦びを求めてのことであり、一般に里山が清貧や禁欲といった観念と結びつけられて語られることを一貫して批判する。

 農耕生活と聞くと「自給自足」という言葉を想起しがちであるが、東氏は「自給自足などという事態は実際にはありえない」と述べる。食糧を自給するためには食糧となるいきものと共に生きざるを得なくなるからである。飼っている鶏のために餌を集めるとき、それは自分がいずれ鶏を食べるためであると同時に、飼われることによって餌を集めさせる鶏の生存戦略でもある。「自分を食べさせてまで子孫繁栄を図る執念には、考えてみれば、どこか不気味ささえ感じられる」と東氏は述べる。

 さらには作物を育てることはその作物の栽培にとどまらず、そこに生きる生物をも育むことになる。畦塗りをした田んぼに水を張るとたちまちオタマジャクシやアカハライモリなどの水生生物が棲みつき、草刈りをした畠では背の低い脆弱な植物たちが生息地を取り戻す。

 こうして米や大豆を育てるために整備した土地は図らずも多種の生きる土壌となる。人間が動物や植物を利用して生きているのと同じように、人間も動物や植物に利用されているのだ。里山は決して長閑で牧歌的な場所などではなく、異種同士の熾烈な生存争いの場であり、また「癒着」による共生の場でもあるのだ。人間は里山を構成する一部分にすぎず、もはや異種ともども「里山の胃袋の中にいる」のである。

 誰しもこの世に存在する限り、他の生物の命を奪って生きるという逃れられない悪事に手を染めている。しかしそのことを日々意識している人はそう多くはないだろう。東氏は「殺すより他に生きようはないが、殺すことはつねに悪いことである」としながらも、罪の意識を持ちながら自らの手で他者を殺しさらに育むことにこそ深い悦びを見出し、そうして貪欲にその悦びを追及し腐敗し堕落した先でさまざまな者たちが生きうる土壌を育む「生前堆肥」になれと我々読者をそそのかす。人類堆肥化計画の趣旨、それは「人類を堆肥化して異種混淆の沃野を形成すること」である。

 本書は徹底して生きる悦びを追求するものであるが、しかしその前提として生きていることの不可解さにたびたび言及している。生きていることの不可解さ、ひいては意味の無さを真正面から言葉にして示してくれたことに私は深く安堵し救われた。そして、その不可解さや苦しさを前提としながらも、「生きているこの事実を引き受け十全に生き尽くす」という思考を手に入れ、さらにはこれまで自分があまりにも人間中心的に物事を考えていたことを知ったのである。

異種の視点から人間を捉える

 その後私は、東氏が寄稿していることを知り『たぐい vol.1』(著・奥野克巳 他、亜紀書房)を手に取った。『たぐい』は「人間の現象にのみ限定して語り、考えることから自らを解き放ち、人間の外側を想像し、踏み込んで、他の〈たぐい〉とともに人間について考え」るべく創刊された、人類学を軸とした思想誌である。この号では12名の論者がマルチスピーシーズ人類学と交差する論考を寄せている。マルチスピーシーズ人類学とは、異種の視点から人間を捉え直す学問であるらしい。

 石倉敏明氏による「複数種世界で食べること―私たちは一度も単独種ではなかった」という論考ではタイトルの通り、異種を食べるという行為について述べられている。中でも、人間が他の捕食者を徹底的に遠ざけ自らを「食べられるもの」と考える習慣を捨ててしまったことで、食物連鎖からはみ出し生物界から半ば孤立してしまった、という石倉氏の見解には深く納得した。他の生物を支配してきたかのように見える人間は実は孤立しているのであり、我々が生きているのは「生存」それ自体を意識することもできない空虚な仮想空間なのではないかということに気付かされる。

 辻村信雄氏による論考「肉と口と狩りのビックヒストリー―その起源から終焉まで」は、「宇宙が始まってから現在まで人間の知りうる歴史のすべてを総合し、未来を展望できるような全体の物語を、現代科学に基づき再構成しよう」とするビックヒストリーの手法を肉食と狩猟に応用し、肉と口と狩りの起源から終焉を一望したものである。この論考では、四十五億五千万年前の地球の誕生に始まり、「肉」の出現、未来の肉食の行方に至るまで順を追って解説している。億年単位、万年単位で歴史を捉えるスケールの大きさは爽快であった。そして同時に気が遠くなるほど長い歴史の果てに自分が存在していることを意識せずにはいられない。

 これらの論考を読み、捕食者たる人間が地球上にいる生物の中でどのような立場に置かれているのか、また地球が誕生してから今に至るまでの大きな流れのどんな時代に今私は生きているのかを提示されたことによって、これまで朧気だった自分という存在に輪郭が与えられたように感じた。

アートを自然や動物との関わりから見つめ直す

 最後に『どうぶつのことば 根源的暴力をこえて』(著・鴻池朋子、羽鳥書店)について述べたいと思う。ここで美術家である鴻池朋子氏の本を取り上げたのは、彼女の作品が動物や自然と切り離しては語れないからである。鴻池氏自身「私は人間の言葉の利かない世界と関わり、そこと親密な関係を結べたことによって、今こうして、ここにいてもよいような気がする」と述べているように、彼女にとって動物や植物の存在はなくてはならないものなのだろう。

 ある時は秋田県の山に建つ避難小屋に作品を展示し、ある時は牛皮を縫い合わせた緞帳に動物の絵を描き、またある時は作品を作るために何度も猟に同行する。こうした型に捉われない作品や展示方法は、東日本大震災を境にこれまでの自分の作品にまったく興味が持てなくなってしまった鴻池氏が、東京から飛び出して東北に足を運び、また他者と対話することで暗中模索しながら作り出してきたものである。本書はその対話の記録と書き下ろしの文章が収録されており、鴻池氏の中で新たなものがどのように目覚めていったのかを掴もうとするものである。マルチスピーシーズ人類学が種を横断して人間を描き出すものならば、人間のための文化であるアートというものを考古学、民俗学、人類学といった学問、また自然や動物との関わりから見つめ直す鴻池氏の行為は、同様の試みと言えるかもしれない。 

 対談の中でとりわけ印象に残ったのは、都市のど真ん中に設置されるパブリックアートについての石倉氏の見解である。パブリックアートとは人間の経済活動のために自然を破壊して生み出された都市に「イケニエ」を捧げるようなものだというのだ。また同時に都市の真ん中に穿たれた巨大な工事現場の穴がかつてそこにあったことを伝えるためのものでもあると述べる。アートが異種との結節点であるとするならば、そのことは、たとえ異種と切り離された都市に生きていたとしても異種の存在を無視することはできないことを物語っている。

 人間中心主義から脱却し異種との絡まりあいの中で生きようとすることは、人類の終わりが見え始め、人類がこれまで地球を荒らしてきた過去をもはや無視できない今、当然の流れなのかもしれない。それは「人新世」や「ポストヒューマニティーズ」という言葉をよく耳にするようになったことからも窺える。そして何よりも私にとってこれらの思想は、死ぬことひいては生きることへの恐怖を緩和し、偶然にもただここに存在しているだけだという安堵感をもたらしてくれた。

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