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民俗知の可能性をさぐる ―― いにしえの人々の民俗をもとめて

記事:春秋社

学問と方法論

 どのような学問にも方法論というものがある。自然科学や社会科学などの「サイエンス」をみれば明らかなことである。仮説をたて、実験をし、統計学的な方法を駆使しながら仮説を実証したり棄却したりしつつ、学問は進んでいく。観察対象が定量的な方法を容易に受けつけられるものであれば、それでよいだろう。

 もちろん、人文学の各分野にも、それが真っ当であるために踏まなければならない手順、方法論というものが存在する。歴史学を例にあげてみよう。ここでは史料批判というものが第一のステップとなる。何かを論ずるにあたり根拠とすべき文書は信頼するに値するか、それを見極めなければならない。史料には偽作の可能性や、政治的な影響によるねつ造をこうむった箇所が内在する可能性もある。ここでは本来のテクストがいかなる姿であったかを推定し、再構するための文献学的な方法が必要になってくる。

 いずれにせよ、ディシプリンとして確立された学問分野には、その門をくぐる者が身につけなければならない方法論というものがあるのであり、言い方を変えれば、成熟した学問分野ほど、成熟した方法論を身につけているといっても、さしあたり大きく外れることはないだろう。

 その点で、民俗学をめぐる状況は興味深い。著者の心境の吐露をうかがってみよう。

 タイトルは迷いながら、『民俗知は可能か』にたどり着いた。民俗学ではなく、民俗知を選んだのは、わたし自身がいまも、ときおりは民俗学者を名乗りながら、どこか後ろめたくて、その中途半端さに落ち着かない気分になるからだ。わたしはきっと、民俗の秘める力は信じている。しかし、民俗学という学知は成熟への階梯をたどることなく、若くして老いてしまったのではないか、と感じずにはいられない。(p.376)

 民俗学者という肩書きを背負わされている古来の知識人を束ねあげる、共通の方法論などというものがあるだろうか。フィールド・ワークという方法がすぐに思いつく。文化人類学や考古学というディシプリンは、これをオーソドックスな方法論として確立し、着実な成果をあげてきた。しかし民俗学と呼ばれてきた知的営為は、文化人類学や考古学といったものをいくらか溢れでる側面をもってはいないだろうか。

 遠くにそびえ立つ柳田国男

 古典的な民俗学者として万人の脳裏によぎる名前といえば、柳田国男だろう。柳田といえば、かの『蝸牛考』などで明らかにされるように、古い時代の中央のことばが後代の周縁地域においてみつかるという「方言周圏論」を連想する人も多いだろう。しかしながら、柳田は、このような明確な理論として定式化できるような方法のみによって日本の古俗を語ったわけではない。『海上の道』などで特に明らかなように、その多くの著述の底には、日本民族 (ヤマト民族) の起源をめぐる、ややロマン主義的ともいえる思弁的なイメージなるものの支配があり、いってしまえば「民俗学の成立以前の民俗学」であるということになるだろう。

 柳田国男をめぐる評価にかんしては、たとえば子安宣邦による「一国知の成立」という表現に端的に表されているように、ヤマト中心史観の呪縛のもとにあり、いにしえの列島の現実を見誤ったものといえなくもない。時をさかのぼればさかのぼるほど、東北の蝦夷や、古事記にも記載のある九州の隼人など、この列島は多種多様な民族の織りなす文化的に豊穣な大地であったと考えたほうが安全だろう。

 著者の柳田国男に対する心境も、これを反映するように交錯していて面白い。

いったい、わたしは何度、柳田国男との訣れを果たそうとしたことか。柳田国男からの離脱、つまり、柳田国男という知や思想の磁場から身をもぎ離すことを願いながら、気がつくと、いつしかまた柳田の著作のなかに眼前の問いにたいする応答の痕跡を探している。(p. 270)

おそらく、わたしはこれからも、このような付かず離れずの距離を保ちながら、柳田国男という巨大な民俗知の蔵の身勝手な利用者として付き合ってゆくだろう。もはや、訣れを語ることはない。わたしは柳田その人に育てられてきたのだ。けっして認知されることのない、不肖の息子といったところか。(p.271)

 「巨大な民俗知の蔵」というのは妙味の詞だろう。柳田国男を読むと、これを学知として扱うべきか、文学作品として味わうべきか、わからなくなることが多い。それでも、柳田国男の論考は、ひとりの鋭利な直観と知性をもつ男によって、列島の古俗について感じ、考え抜かれたものであることは間違いなく、民俗にかんする知を考究しつくしたあとの産物であることは否定しようもない。どれほど素面になって臨んでみても、列島の民俗を考える者は、最後には結局、柳田国男という巨人と邂逅することになるのである。柳田国男は、やはり慎重に読むことが要求されることはあっても、列島の古俗にかんして「何らかの核心」を語っているのである。

民俗知の可能性

 結局のところ、文字にならない、周縁の、いにしえの民俗の痕跡をたぐりよせるためには、言語地理学的な方言周圏論や文化人類学的なフィールド・ワーク、さらにはフォークロア研究や神話研究など、隣接分野の学知を総動員しなければならないというのが穏当な回答だろう。しかしながら、本書を読むともうひとつ、素朴だがそれ自体魅力的な方法があることに気づかされる。

 民俗とはわれわれ自身の生活風景の絶え間のない蓄積であり、またこういった生活風景の蓄積について語ってきた人物がどの時代にも存在した。江戸時代あたりまでさかのぼれば本居宣長などがすぐに思いつくであろう。その後も折口信夫や和辻哲郎、丸山眞男など、枚挙にいとまがない。いわば、民俗学史、民俗をめぐる知の系譜とでも呼ぶことができようか。そのような間接的な「方法」によって語られたものの地図をつくることで、民俗そのものに肉薄することも可能なはずである。もちろん、いずれの古典もその読み方にはそれ相応の注意が要求される。古典は魔物であり、勝手な読みをしていると自分が飲み込まれてしまうから。

 本書では柳田国男のほか、石牟礼道子、岡本太郎、網野善彦、そして宮本常一といった人物それぞれが描いた「民俗知」を味わうことができる。読者は、本書を澪標として、各人の読書を進めることができるだろう。その先の針路は、各人にゆだねられている。

 

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